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ヤフー掲示板にて、時折出没しております、kuma8_takuan と申します。 今まで書きなぐってきた物などを多少なりとも整理できましたらと思い、 不慣れながらブログというものにTryしていきます。 
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関八州と呼ばれた江戸府外の土地は、幕府領や旗本領それに小藩の領地が入り乱れていて、その警察権はそれぞれの領主にあったから犯罪を起こした者は犯罪を起こした土地の領外へ逃げ出せばとりあえずは安心であった。ただ重罪を起こした者には廻状が廻ったから、そうとも言えないが、博奕で追われる程度ではその限りではない。

江戸時代も後半になって来ると、その弊害が顕著になって来たので、幕府は組合村制度を作った。これは幕府領や私領の区別無く、地域の村々を一つにまとめて犯罪を取り締まるというものであった。そこで取り締まりに当たったのが関東取締出役である。

俗に八州廻りとも言うが代官所の手代手付から任命されたが、身分上は足軽格で勘定奉行配下で住まいは江戸にあった。彼らは取締りの度ごとに江戸から任地へ赴くのであるが旅籠代は自弁であったが幕府が設定した旅籠代は低く設定されていたから旅籠にとっては有り難く無い客であった。

地方には村役人の他に街道筋の宿場には宿場役人が置かれていた。所謂、問屋といや制度である。各宿場にはその規模に応じて馬100匹人足100人、馬50匹人足50人、馬25匹人足25人などが置かれた。これは夫役であったから当初は近隣の百姓が狩り出されて幕府の公の物資の輸送や大名の参勤交代の手伝いにあたった。後には百姓仕事に差しさわりがある為、この力役を金納で済ますことが多くなり問屋では無宿人などを人足として雇うようになった。

この雇わられた人足達は人足小屋に住まいしていたから、仕事の無い時は自然と博奕に染まっていった。彼等を支配していたのは人足頭であり宿場役人の問屋などであったが、問屋は同時に旅籠なども経営していた。当時の旅籠には飯盛り女という売笑婦も置いていることが多かったから飲む・打つ・買うの三拍子揃った悪所でもあった。

関東取締出役、俗に言う八州廻りも当初は旅籠代を自弁していたが、博奕を黙認するなど宿役人と癒着するようになり長逗留するなどしていった。江戸に居ては肩身が狭くとも地方に出れば二本ざしのお役人様で威張っておられたのである。しかしながら問屋はその費用を御用と称し近在の農家に割り振ったから、割り振られた者たちは堪ったものでなかった。

この八州廻りが取り締まりに出張った際には道案内という土地の物が同行した。村方や宿場の顔役である。この道案内についた者達の中には村役人や宿場役人の次三男が多かったから江戸時代末期の博徒の親分には富裕農家の子弟が多かったと言うのも頷ける話である。


天明年間、浅間山の噴火を機に飢饉が起き土地を捨て江戸などに向かい浮浪する者が後を絶たなかった。これを欠落カケオちという。幕府は江戸の町の浮浪人対策に頭を痛めていたから、村方で欠落ち者を出すと親戚筋や五人組それに村役人が処罰された。管理不行き届きという訳である。欠落ち者が出て数日の内に連れ戻せれば当人を除き処罰されなかったから、親戚筋や五人組それに村役人は夫々心当たりを探し回った。

それでも見つからない時には、岡っ引きである道案内に依頼することが多かった。犯罪捜査とこのような時の為、岡っ引き同士は横の連絡網を構築してあったから(所謂、仁義)、素人衆よりは有効な探索ができた。警察の連絡網といったところか。

関八州の中には火付盗賊改め方も入って探索していたから、火付盗賊改め方の手先になって活動していた者たちも居た。中には関東取締出役の道案内と対立し抗争する場合もあった。お互いに叩けば埃の出る身の上だったから先に召し捕った者勝ちという笑えない話もあった。

このようにネットワークが構築された博徒には、概ね二つの流れが出来上がっていった。一つには幕府や藩の御用を預かる博徒の流れと、それには属さぬ反体制派の博徒であった。黒駒の勝蔵と清水の次郎長の抗争は有名だが、黒駒の勝蔵は反体制派であり清水の次郎長自身は御用は引き受けなかったが兄弟分には二足の草鞋を履いた者がいた。

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岡っ引きで博打打ちを称して二足の草鞋を履くと言うが、江戸時代は博徒の親分が目明し岡っ引きの親分でもあった。

そもそも封建制というのは、ある種の集団の統治はその集団に任せるというのが基本的な考え方であったから、幕府は全体を管理はするが村や町や宿場には夫々の地域の代表者を役人に任じて支配させた。それに穢多や非人と呼ばれた人々については、穢多頭・非人頭を置いて支配させた。

村役人・町役人は、その運営費用についてはその支配下の村民や町民に戸数や間口により頭割りにして徴収することが多かった。

百姓の税と言えば年貢が先ず頭に浮かぶが、年貢だけでなく夫役があったが夫役以外にも金納も有り、地域や集団の実情に応じて使い分けられていた。江戸前の漁業者については江戸城に納入する魚が義務づけられていたし職人集団には一定量の物納が義務ずけられているものがあった。

江戸時代の警察制度というのは、南北町奉行所を思い描くがそれは江戸府内の、それも町人や浪人のみを担当した。それ以外の関八州と呼ばれた天領は、勘定奉行が担当だったが刑事犯の取り締まりよりは、年貢の徴収担当官で現在の税務署長が警察権を持っていた位に考えるのが丁度良いだろう。

実際に犯罪者が出た場合には、町役人が詰めている自身番という小屋へ突き出された。それを町廻りの同心が吟味のうえ大番屋へ引き立てて行った。

それでは村方ではどうしたかと言うと村役人宅に犯罪者を閉じ込めて(江戸初期は牢の用意は無いことが多かった)勘定奉行所に連絡をして、奉行所から判断を仰いだ上で犯罪者を江戸まで引き連れて行かねばならなかった。その犯罪者の食い扶持や見張りの費用及び江戸までの費用や旅籠代などは全て村方で賄わなければならなかった。

村方で賄うということは、村の百姓衆の負担が増えるということを意味した。そのため、重大な犯罪以外は見逃されることが多かった。

江戸初期の警察制度と言うのは、思うに性善説で出来ていたものか。侍が毎日のように切りあっているのを見ていたら、それなりに抑止力は働いていたのかもしれん。刑の内容も敲き・追放・遠島・死罪・張付け獄門などであったが、特に追放刑などは犯罪者を地方に追いやることでしか無かったから、その犯罪者に舞い込まれた土地では堪ったものでは無かったろう。

目明しというのは目証しであって、その昔は犯罪を犯した者の罪一等を免ずる替わりに深編み笠を被せて町中を連れ歩き、同類の者を指差させ片っ端から召し捕ったからだと言う。古くは平安時代に京都の警護を担当した検非違使が犯罪者検挙の為に放免という元犯罪者たちを使ったとあるが、まさに蛇の道は蛇で我国の伝統であろうか。

八代将軍の吉宗はこれを嫌い目明しを使うことを禁じたが、吉宗将軍亡き後は岡っ引きとして復活したという。二本ざしを差してふんぞりかえっていても犯罪捜査はできぬものらしい。岡っ引きの岡は岡目八目や岡場所の岡で本筋ではないという江戸弁らしい。

さて、この岡っ引きであるが町奉行所の同心などが私的に使用したものであるが給金などロクに払われなかったから各々が別に商売を営み、御用風を吹かせ相当アコギなまねをしたらしい。奉行所の同心達も犯罪者の摘発に欠かせないので見てみぬふりをきめこんでいた。

博打がご法度なのは江戸時代も変わらないが、寺も大名屋敷も町方にとっては治外法権だったので博打場が開催されていると解かっていても町方は踏み込めなかった。火事とけんかは江戸の華と言われるように江戸は大火に度々見まわられたので幕府は大名に命じて定火消しを置いたが、これがいけなかった。火消し人足として雇わられた人足連中は火事が無ければすることが無いので年がら年中博打漬けの有様となってしまった。

オシラサマについては、ネフスキー氏の指摘するように、お知らせ神であると思います。古代の狩猟採集民にとって、今日・明日、何処へ行くかで収穫できる獲物の料が違うということは、それは切実な問題であろうことは容易に想像できます。

白山信仰には、菊理姫がセットになっています。ククリヒメなどとも言われ、高句麗との関連を疑う説もありますが、これは、菊理(姫)→ 聞き取り(巫女)であろうと思われます。

沖縄には、聞得大神とユタというのがありますが、東北・北陸にはオシラサマとイタコですね。人により感じ方は違って当然なのでしょうが、私は似ていると思います。縄文期のシャーマニズムが遠く隔てられた地域に残されているのです。

知らせ神 イタ(コ) ⇔ 聞得大神 ユタ

古形が知らせ神であったオシラサマは、その言葉の類縁性から様々な信仰が習合していきます。

シロコ・シロは、蚕の別名であり養蚕農家や絹製品に携わる人々からの崇敬の念を集めますし、白日神と言えば素戔嗚尊のことでもあります。

素戔嗚尊は、新羅から来たという記紀の記述や、新羅(しらぎ)そのものの音からの関連性や朝鮮半島での聖地、白頭山(長白山)関連、渡来系の人々には当然そのような観念もあったのではないだろうか。

一説には匈奴語でシラマは、白山の意味が有るといいます。ヒマラヤはサンスクリット語で白い住居の意味があるとも言います。神霊の降り立つ処としてのシロ信仰、三苗族の中には白を族名としている白族もあれば、白衣民族とも言われる半島人もいました。東アジアには、古来よりシロ信仰があったように思えます。

頭をカシラとも言う。アイヌ語でkaは、~の上 つまりシラの上にあるのが頭、カシラ。柱ハシラは、アイヌ語でpaは、頭の上 つまり頭の上のシラが柱、柱は墓標でもあり神霊そのものでもあります。

ニコライ・ネフスキー氏の書簡


アイヌのオシラ神に就いてはまだ智識は御座いませんが、樺太アイヌには Shienishte と申して男女二体の神あり、「ニハトコ」の木でこしらえてある。首の所へ少し斗り布片を纏ふのです。之を子供の御護りなりといふ。

更に松前記の記事を見ました。其の時はアイヌのオシラ神は現代アイヌのシラッキカムイに何か関係ないかしらと思って居りました。「オトラ狐の話」を金田一君のお手紙と一所に考えてみると非常に面白いと思います。

アイヌのシラッキカムイは(語源は看守する、番すると同一なり)アイヌの守り神である。アイヌが一人前になると大抵みな一つづつ(時としては沢山)もって居るそうです。少し家をはなれる様な場合には、カバンへ納めて身を放さず携帯するのです。病気にでもなると、すぐそれを取り出して全快を祈るのです。

又山中で、どっちへ赴いたら獲物に逢われるかと占う時にも、之をカバンから取り出して頭の上に載せて、呪文を唱えた後、少し頭をかたむけて頭上から下へそれを落とすのです。その落ち方を見て吉凶を卜知するのだそうです。

其のシラッキカムイの実物はどんなものでせうかと問ふに、老狐のされかうべです(時々梟の髑髏も使います)。狐は年を取ると尾のさきが二つにも三つにも裂けるさうです。それでなければ、この守り神になりませんといふ。

髑髏は綺麗に骨だけにして目の穴へはイナウのけずり屑を詰め、左右の耳の辺りをばキリヾと縛って耳のやうにイナウの端を立てます。この髑髏の中へもイナウを詰めて神聖にしてあります。

平常これをイナウの削り花の束の中へ挿入しておきます。持って歩くにも其のまヾ(屑をつけたまヾ)持って歩くのです。只占う時だけはほんの髑髏だけを頭上に載せます(金田一君の御手紙の摘要)。


大正九年四月七日   柳田國男宛 書簡より抜粋

N・ネフスキー 著  岡 正雄 編 「月と不死」平凡社 より
ニコライ・ネフスキー氏の手紙


私の考えではシラーといふ神名は知るといふ語から来てゐるのではなかろうか。そして神様の名前はシラであってこの神に侍する者ー即ち巫女ーもシラといふ名前を負たらしい。おしまひには巫女の一種の俗名になつたのではなからうかと思ひます(白神筋、白比丘尼、白拍子、白太夫等御参照)。

御承知の通り色々の人種や民族の巫祝の俗名は(シャマンを始めとして)知るといふ語に根ざしてゐるのです。日本にもヒジリなどの言葉は同じ意味ぢゃありませんか。極昔は巫女の事を只シラといふたかも分かりません。

人民の方からいへば巫女はシラ即ちモノシリで、巫女の方から云ふとオシラ神は我にものをシラせる神であると言ふても差支がなからうと思ひます(国々にある尻神や知神等は元と巫女シラ神であつたかも知れません)。

昔の巫女が神下しする折には色々の神々を呼び寄せたが、彼れに憑いた神は只一番大切な代々から緻密な関係のあった神だけでした。其の神を巫女自身が知ら神といつたのではなからうか。又色々の神々を呼び寄せた事も右の因縁深いおしらさまのお蔭だつたと思います。

だから神降ろしの時に右の御神体で弦を打って神々の名を唱えて彼等を呼び出したのです。即ち右の神は色々の神々の神使いです。此方面から神使を研究しなければなりません。

其オシラサマの色々の動物頭を調べて見ると狐、鶏、馬など御座います。大抵皆憑きものです。馬は憑きものあるといふ事に就いては材料が御座いませんが馬を神として(又は道端でYの様な馬供養を立てヾ)祭る習慣と、西比利亜シャマンと深い関係があるのとを考えて見ると、昔の日本に於いても馬と巫女術との関係があつたかも知れません。右の動物は所々の巫女銘々の守護神だつたとも考えられます。

山猟団体が狩に出掛ける折には、巫女を連れて来て彼の守護神なるオシラ神には御意見を聞いたと思ひます。山猟と巫女術と極々緻密な関係だつたと思ひます。現代の巫女が弓を使ふのとイラタカの数珠に猛獣の牙や爪を附けるのと、猟の前にオシラサマに方角を聞くのとは皆々其の時代の歴史を語るものでは御座いませんか(オコゼ魚を紙で包むのとおしらーーに着物を着せるとは何か関連が御座いませんか)。

時代が変わつて来て狩猟団体の代わりに舞台に百姓が出て来た。巫女は一定した村に居られなくなつて浮標人になりました。百姓のご機嫌をとつたり大事な農業の事を神に聞いたりなどして生活して居りました。

豊作がつづいた時には左程巫女の力を借りる必要がない時は、彼女達は生活をいとなむ為に村から村へ、戸から戸へ廻り歩いて大事な神様を遊ばすとて人形芝居の様な事をやり始めたのではなからうか。

もとの所には仏像を真似てオシラ神の御神体を安置して白太夫とて祭つたのでせう(自分も時として白太夫と名乗って国から国へ漂って居りました)。更に白山といふ名前に就いてはどうも其の処は何かの故を以って巫女に関係深い所だつたと思われます。

白山はくさんのもとの訓はシラ山だと思ひます。後に仏教の影響を受けてハクサンと呼ぶ様にしたでせう。其の辺から出た巫女は、西宮の白太夫と同じく男女二体の人形を安置して置いて白山権現として其を祭つたかも知れませんが如何でせうか。



大正九年四月一日  中山太郎 宛書簡より抜粋

N・ネフスキー 著  岡 正雄 編 「月と不死」平凡社 より
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