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ヤフー掲示板にて、時折出没しております、kuma8_takuan と申します。 今まで書きなぐってきた物などを多少なりとも整理できましたらと思い、 不慣れながらブログというものにTryしていきます。 
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日の本将軍を名乗ったのは、中世の津軽安藤(安東)氏

である。津軽安藤氏の出自はハッキリしないが、私には

安藤氏の名前が海人族の祖としての 安曇 からきてい

るように思えてならない。であるならば、 日の本将軍

を名乗る理由も頷けると思う。

これは「日本」の国号にも関連することなので少し考え

てみたいと思う。 尚、イチイチ面倒いので文献や年号

の記載は、省略させていただく。

そもそも中国側文献にでてくる 倭奴 委奴 面土 は

何と読むべきなのか。ワナ や イナ や メンド と

読まれているケースが多いとは思うが、何れの読みをし

ても100年河清を待つで何等有効な解読が成されてい

ないのは、周知のことである。

つまり、「ワナ や イナ や メンド」では前提条件

が違うのである。私はこれを、

 倭奴 委奴 → イド(ト) WiDo

 面土 → モト

と読みたい。

漢委奴国王 → かんの イド こくおう

であり、倭奴・委奴 も原意は変わらない。倭人の国で

奴は、土であり → 土地や国、地域を著すのであろう。

今更いうまでも無く「奴」は、夷狄に対する卑字である。

面土国は、モト国 → 本国 の意であろう。

こう考えると、飛鳥時代に「日本」の国号が採用された

理由も見えてくる。唐突に

大和(邪馬台) → 日本

では無いのである。 

倭奴国 → イ(wi)のモト国 → ヒのモト国

→ 日の本 → 日本

であり、この認識があればこそ ヤマト が 日本

と名乗れるのである。決して日が近いという理由だ

けではないのである。



倭国王帥升は、安曇氏である。文献的な裏付けは無

いが、状況から言って安曇氏である。

邪馬台国、大和の台頭により表の歴史から姿を消し

た安曇氏が、北へ流れて行き先祖の 日の本(王)

将軍を名乗ったのである。

また、

出雲(イヅモ)は、倭奴(イド)のモト(面土)国

である。つまり出雲は、

イドモト → イヅモッ

である。


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倭国王帥升が貰った金印「漢委奴国王」をどう読むか?


三国志魏書 東夷伝 高句麗
涓奴部・絶奴部・順奴部・灌奴部・桂婁部あり

この”奴”字は、皆ひとしく”ど”と読むのに倭人伝に関しては

”な”とか”ぬ”と読むと言っている連中が五万といる。

一体なにを考えているのか? 高句麗の件で”ど”なら倭人伝でも

”ど”と読むべきだ。


魏志倭人伝では、北九州に上陸した魏使の行程は

末廬國 → 伊都國 → 奴國 → 不弥國 ・・・・・

那の津と後年呼ばれたから、”なこく”と読みたくなる気持ちも

倭から渟ではないが、これは


      奴國 ━━━(゚∀゚)━━━ どこく


で良いと思う。  何故か ?

それは、この國の住民は   

      安曇 ━━━(゚∀゚)━━━ あど

安曇氏だからだ。

「すみ・つみ」と読めば「神」のことだが

「ど」と読めば「土」であり、土地や國の意味であろう。
「と」と読めば「人」であり、アイヌの呼称と同様であろう。

よって「漢委奴国王」は、奴(ど)國 いや 奴(ど)地域の首長が

漢により倭国王とされたことにより委奴(伊都)国が誕生したのである。

つまり伊都国と奴国は、重複しているのであろう。


しかし、この時この地域の主権は後背地の邪馬壹國へ移っている。
 


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