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日の本将軍を名乗ったのは、中世の津軽安藤(安東)氏
である。津軽安藤氏の出自はハッキリしないが、私には
安藤氏の名前が海人族の祖としての 安曇 からきてい
るように思えてならない。であるならば、 日の本将軍
を名乗る理由も頷けると思う。
これは「日本」の国号にも関連することなので少し考え
てみたいと思う。 尚、イチイチ面倒いので文献や年号
の記載は、省略させていただく。
そもそも中国側文献にでてくる 倭奴 委奴 面土 は
何と読むべきなのか。ワナ や イナ や メンド と
読まれているケースが多いとは思うが、何れの読みをし
ても100年河清を待つで何等有効な解読が成されてい
ないのは、周知のことである。
つまり、「ワナ や イナ や メンド」では前提条件
が違うのである。私はこれを、
倭奴 委奴 → イド(ト) WiDo
面土 → モト
と読みたい。
漢委奴国王 → かんの イド こくおう
であり、倭奴・委奴 も原意は変わらない。倭人の国で
奴は、土であり → 土地や国、地域を著すのであろう。
今更いうまでも無く「奴」は、夷狄に対する卑字である。
面土国は、モト国 → 本国 の意であろう。
こう考えると、飛鳥時代に「日本」の国号が採用された
理由も見えてくる。唐突に
大和(邪馬台) → 日本
では無いのである。
倭奴国 → イ(wi)のモト国 → ヒのモト国
→ 日の本 → 日本
であり、この認識があればこそ ヤマト が 日本
と名乗れるのである。決して日が近いという理由だ
けではないのである。
倭国王帥升は、安曇氏である。文献的な裏付けは無
いが、状況から言って安曇氏である。
邪馬台国、大和の台頭により表の歴史から姿を消し
た安曇氏が、北へ流れて行き先祖の 日の本(王)
将軍を名乗ったのである。
また、
出雲(イヅモ)は、倭奴(イド)のモト(面土)国
である。つまり出雲は、
イドモト → イヅモッ
である。
である。津軽安藤氏の出自はハッキリしないが、私には
安藤氏の名前が海人族の祖としての 安曇 からきてい
るように思えてならない。であるならば、 日の本将軍
を名乗る理由も頷けると思う。
これは「日本」の国号にも関連することなので少し考え
てみたいと思う。 尚、イチイチ面倒いので文献や年号
の記載は、省略させていただく。
そもそも中国側文献にでてくる 倭奴 委奴 面土 は
何と読むべきなのか。ワナ や イナ や メンド と
読まれているケースが多いとは思うが、何れの読みをし
ても100年河清を待つで何等有効な解読が成されてい
ないのは、周知のことである。
つまり、「ワナ や イナ や メンド」では前提条件
が違うのである。私はこれを、
倭奴 委奴 → イド(ト) WiDo
面土 → モト
と読みたい。
漢委奴国王 → かんの イド こくおう
であり、倭奴・委奴 も原意は変わらない。倭人の国で
奴は、土であり → 土地や国、地域を著すのであろう。
今更いうまでも無く「奴」は、夷狄に対する卑字である。
面土国は、モト国 → 本国 の意であろう。
こう考えると、飛鳥時代に「日本」の国号が採用された
理由も見えてくる。唐突に
大和(邪馬台) → 日本
では無いのである。
倭奴国 → イ(wi)のモト国 → ヒのモト国
→ 日の本 → 日本
であり、この認識があればこそ ヤマト が 日本
と名乗れるのである。決して日が近いという理由だ
けではないのである。
倭国王帥升は、安曇氏である。文献的な裏付けは無
いが、状況から言って安曇氏である。
邪馬台国、大和の台頭により表の歴史から姿を消し
た安曇氏が、北へ流れて行き先祖の 日の本(王)
将軍を名乗ったのである。
また、
出雲(イヅモ)は、倭奴(イド)のモト(面土)国
である。つまり出雲は、
イドモト → イヅモッ
である。
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倭国王帥升が貰った金印「漢委奴国王」をどう読むか?
三国志魏書 東夷伝 高句麗
涓奴部・絶奴部・順奴部・灌奴部・桂婁部あり
この”奴”字は、皆ひとしく”ど”と読むのに倭人伝に関しては
”な”とか”ぬ”と読むと言っている連中が五万といる。
一体なにを考えているのか? 高句麗の件で”ど”なら倭人伝でも
”ど”と読むべきだ。
魏志倭人伝では、北九州に上陸した魏使の行程は
末廬國 → 伊都國 → 奴國 → 不弥國 ・・・・・
那の津と後年呼ばれたから、”なこく”と読みたくなる気持ちも
倭から渟ではないが、これは
奴國 ━━━(゚∀゚)━━━ どこく
で良いと思う。 何故か ?
それは、この國の住民は
安曇 ━━━(゚∀゚)━━━ あど
安曇氏だからだ。
「すみ・つみ」と読めば「神」のことだが
「ど」と読めば「土」であり、土地や國の意味であろう。
「と」と読めば「人」であり、アイヌの呼称と同様であろう。
よって「漢委奴国王」は、奴(ど)國 いや 奴(ど)地域の首長が
漢により倭国王とされたことにより委奴(伊都)国が誕生したのである。
つまり伊都国と奴国は、重複しているのであろう。
しかし、この時この地域の主権は後背地の邪馬壹國へ移っている。
三国志魏書 東夷伝 高句麗
涓奴部・絶奴部・順奴部・灌奴部・桂婁部あり
この”奴”字は、皆ひとしく”ど”と読むのに倭人伝に関しては
”な”とか”ぬ”と読むと言っている連中が五万といる。
一体なにを考えているのか? 高句麗の件で”ど”なら倭人伝でも
”ど”と読むべきだ。
魏志倭人伝では、北九州に上陸した魏使の行程は
末廬國 → 伊都國 → 奴國 → 不弥國 ・・・・・
那の津と後年呼ばれたから、”なこく”と読みたくなる気持ちも
倭から渟ではないが、これは
奴國 ━━━(゚∀゚)━━━ どこく
で良いと思う。 何故か ?
それは、この國の住民は
安曇 ━━━(゚∀゚)━━━ あど
安曇氏だからだ。
「すみ・つみ」と読めば「神」のことだが
「ど」と読めば「土」であり、土地や國の意味であろう。
「と」と読めば「人」であり、アイヌの呼称と同様であろう。
よって「漢委奴国王」は、奴(ど)國 いや 奴(ど)地域の首長が
漢により倭国王とされたことにより委奴(伊都)国が誕生したのである。
つまり伊都国と奴国は、重複しているのであろう。
しかし、この時この地域の主権は後背地の邪馬壹國へ移っている。
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父は会津、母は信濃出身で、どうみても縄文系の熊八です。北海道生まれで、関東育ち。現在は相模の国に住まいしております。
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