忍者ブログ
ヤフー掲示板にて、時折出没しております、kuma8_takuan と申します。 今まで書きなぐってきた物などを多少なりとも整理できましたらと思い、 不慣れながらブログというものにTryしていきます。 
1  2 
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

連合軍軍政期

連合軍軍政期には「北朝鮮」及びに「南朝鮮」との表記が出現するが、この時代における「北朝鮮」はソビエト連邦軍政下の朝鮮地域を、「南朝鮮」はアメリカ軍政下の朝鮮地域を意味する言葉として用いられている。
連合軍軍政期
1945年8月15日第二次世界大戦 で大日本帝国敗北。朝鮮半島での日本の統治終了、連合国軍の管轄になる(北緯38度線以北をソビエト連邦軍が、同以南をアメリカ軍が管轄)。
1945年9月6日 南側で呂運亨らによって結成された「朝鮮建国準備委員会」、「朝鮮人民共和国」樹立を宣言。
1945年9月8日 ホッジ中将の米第24軍団第一陣、仁川に上陸。9日、朝鮮総督府が降伏文書に調印。
1945年9月11日 アメリカが在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁を宣布。
1945年10月 アメリカが「朝鮮人民共和国」および「朝鮮建国準備委員会」の承認を拒否する。
1945年10月 北朝鮮共産党臨時人民委員会樹立。
1945年12月 モスクワ三国外相会議。朝鮮半島の英米ソ中の4か国による最長5年間の信託統治の必要性決定。
1946年2月3日 通化事件で共産党による圧政に蜂起した日本人数千人が朝鮮人民義勇軍と東北民主連軍に虐殺される。
1946年10月1日 大邱10月事件で230万人がアメリカ軍政に抗議して蜂起。
1947年2月 北朝鮮人民委員会樹立。


第一共和国期
1948年
4月3日 - 済州島四・三事件
5月10日 -初代総選挙
7月17日 - 第一共和国憲法制定
8月15日 -李承晩大韓民国の建国を宣言。
10月19日 - 麗水・順天事件
1949年
10月19日 - 共産党非合法化措置の断行。民主主義民族戦線傘下の南朝鮮労働党など133団体の登録を取り消し。
12月1日 -国家保安法 を制定公布
12月24日 - 聞慶虐殺事件
1950年
5月30日 -第2代総選挙、反李承晩系の南北協商派と中道勢力が過半数を占める。
6月25日 -朝鮮戦争勃発
6月28日 -朝鮮人民軍 、ソウルを占領。(ソウル会戦
7月26日 - 老斤里事件
夏 - 保導連盟事件
9月15日 - 仁川上陸作戦
9月28日 - 国連軍、ソウルを奪回。
10月 - 中国人民志願軍参戦
1951年
1月4日 - 中朝軍、ソウルを再度占領。
初頭 - 国民防衛軍事件
1月6日 - 江華良民虐殺事件
2月9日 - 居昌良民虐殺事件
3月14日 - 国連軍、ソウルを再奪回。
4月11日 - マッカーサー解任。
12月23日 - 李承晩大統領、与党自由党を結成
1952年
1月8日 - 李承晩ラインの宣言
2月4日 - 第一大邦丸事件
4月25日 - 基礎自治体である市・邑・面の議会議員選挙、翌月の5月10日には道議会の議員選挙が行われた。→1952年韓国地方議会選挙
5月25日 - 政府は「共産ゲリラの掃討」を名目に、釜山と周辺地域23郡に非常戒厳令を布告、翌26日に野党系の国会議員多数がスパイ容疑で憲兵隊に連行され、恫喝される(釜山政治波動)。
7月4日 - 大統領を国会議員による間接選挙制から、国民からの直接選挙で選出する直選制に変更するための憲法改正案が可決される(抜粋改憲)。
8月5日 -大統領選挙 、直接選挙制によって行なわれた選挙で李承晩大統領が2回目の当選を果たす。
1953年7月27日 - 朝鮮戦争停戦。
PR
遮られた歴史、韓国軍も従軍慰安婦を置いた
軍隊旅行2010/06/26 06:06キャルル


戦争が起きれば若い男たちが一番最初にいわれのなく死んでいくが、戦争という(のは)おばけは軍人だけでなく社会をみんな飲み込みます。戦争の真っ黒な煤煙は人々の良心を強くこねて世の中を獣の巣窟で作ります。人らしさを踏みにじって獣が暴れる社会で軍人で出た男たちだけでなく女たちも血の涙を流すしかないよ。


日帝侵略期の時、日本軍が韓国女たちと数多くのアジア女たちを従軍慰安婦に引っ張っていって性的奴隷で働かせたのにノコノコと傲慢に振り舞うのに全世界は憤ります。日本を味方になってはいけないが韓国市民自らも過ぎた日を見て回って探ってみるべきことは探ってみながら歴史意識を持たない限り、日本から謝罪を受け取るのは難しいようです。


泥棒が私足がしびれると、韓国泥棒は日本泥棒に指差しするのがしょげてから玉虫色で過ぎて行こうとするからです。日本が過ぎた日を謝罪しない理由は誤りを問い詰めなければならない韓国が日本くらいゆがんだためです。張りつめることがおびただしいゆがんだ韓国支配勢力は自身と別に違うことがない日本に指差しすること何をしてからなだめるのに忙しいです。 苦々しいが、従軍慰安婦は日帝だけ置いてたのではなく朝鮮戦争の時韓国軍も置きました。



慰安所の前に列をなした日本軍兵士たち. 予備役将軍の回顧録によれば朝鮮戦争当時国軍将兵も24人用野戦テントとか分隊テントの前でこのように列をつくって慰安対を利用した。


連帯は雪岳山(ソラクサン)掃討作戦を交代(教大)下校休息する兵士たちのために、が洞窟の中に後方で女を火傷をしようとしたが置いて兵士たちの動物的欲求を解消する程の‘恩典’を施した。従軍慰安婦だ。性欲の充足を望む病死(兵士)は自分の月給で票(表)を買って入れば良かった。洞窟の中はかますを敷いて、その上にビニール雨具のベッドシーツを覆ったベッドだ。 かますを垂らしたカキ入口の前にはいつも兵士たちの列が絶えなかった。



リ・ヨンヒ先生が書いた文です。朝鮮戦争当時通訳将校として前方と後方で戦闘して死ぬ思いの峠を何回も渡したリ・ヨンヒ先生は淡々と従軍慰安婦に対して文を書きます。どのようにこうしたことがインニャミョンソばっさりひっくり返したり叱る文ではありません。 従軍慰安婦を置いて将校と病死(兵士)の間にけんかを思い出させて“戦場の兵士たちに性問題は日常茶飯事がいや”として“思わず笑いが私や思い出す限り小さいエピソード”と少ないです。


朝鮮戦争当時国軍が軍慰安所を置いて慰安婦制度をしてきたという主張が2002年、学界に出てきました。国軍が慰安所を置いて将兵が利用させたという主張はその間いくつかの予備役将軍の回顧録と参戦者などの証言によっても後押しされてきたが軍当局が作った公式記録(戦死)等を根拠に韓国軍が慰安対を設けたとキム・クィオク博士が明らかにしたことでしょう。



従軍慰安婦はその数字や強制性では日本軍と韓国軍はある程度の差があるだろうがその下節米は全く同じです。戦争が起きれば軍人をなだめて口説き落とそうと女たちは火傷をしようとしたが延長のように使うことでしょう。必ず軍隊が管理しなくても色々な格好の従軍慰安婦は当然生じるものです。 戦争はあちら男軍人とこちら男軍人が互いに死んで殺すことだけを考えやすいが戦争という(のは)怪物の鋭い歯はすべての女たちをかみちぎります。



愛国心と敵がい心だけをあおりたてるといって戦争を行うことができません。自分たちの努めることに補償がないならば手のつけられない状態ではない以上銃を取りません。したがって男性支配勢力は被支配男たちを軍隊に引き込もうと女性という(のは)火の玉を明らかにします。国家機構は軍人に女たちをどうにか‘普及(補給)’といいながら‘男連帯’を成し遂げて、戦争をしていきます。



朝鮮戦争直前に当時38度線南である甕津半島(オンジンバンド)を訪問して女子学生のお迎えを受けた国連現場視察団. 1950年10月~12月北朝鮮地域を占領した米軍と韓国軍の一部将校は中国共産軍の介入で後退しながら一部女子学生を'特殊目的'で同行38度線を越えたことが明らかになった。


軍服務でも戦場でも男たちが苦痛を耐える理由は女たちに戻るためにですから。女たちがからだと心を捧げる面倒見と自身を守るという有り難みがないならば男たちは戦いません。女たちが自らの耳にささやかなくても色々な象徴操作を経て軍人は自身が国と女たちを守るという使命感を持つようになります。 国家を守るという沸きかえった感情の中には不思議な期待が隠れています。想像でも実際でも女性を挟まらなければ軍事主義はなされません。


それで軍事訓練を受ける時、“前方恋人の名前10秒間発射”をして、軍人は自身の苦労を恋人でも集娼村でも‘補償’を受けようとすることでしょう。ゴム靴逆に履く女に社会が立ち上がってかっと怒る理由でもあります。軍人の国防労働をまともに補償を受けることができないという何となく寂しさと軍生活の大変疲れるということが‘女性’に向かって鬱憤に出てくることでしょう。 軍隊労働の補償を女性たちがすべきなのにしないから。


日帝慰安婦にはげんこつをぶるぶる震えながら韓国軍が行った蛮行には咳払いだけするならば決して日本の謝罪を受けることができません。日帝だけ間違ったと大声を上げるのでなく戦争自体に対して反対して平和をどのように作るのか悩まなければなりませんね。いつの時より戦争が起きる気配が濃厚に敷かれた韓半島です。 戦争はならないと今日叫ばなければ、後日悲鳴をあげるというのを忘れてはいけません。


戦争が起きればどんなことが広がるのか、なぜ戦争が起きてはいけないのかこれと言った関心ない韓国の支配勢力は戦争を統治手段として使おうとします。朝鮮戦争60周年をむかえて戦争のぞっとすることを再確認するより戦争の恐怖を楽しもうとする人々が肩に力を集中します。また、どんなことを犯すのか市民は憂いに陥ります。


ソース・自動翻訳による


韓国版wikiから消された記事 ?


大韓民国軍慰安婦、韓国軍慰安婦、米軍慰安婦または、挺身隊は朝鮮戦争、以後1990年代まで駐韓米軍駐留時に[1]大韓民国国軍によって強行された大韓民国国軍と駐韓米軍の性的欲求を解消するための目的で強制的に集団的性行為を強要された慰安婦をいう。 朝鮮人民軍女性軍[2],女性パルチザン ゲリラ、その他に朝鮮人民軍や中華人民支援軍(郡)占領地内の住民である女性中そこまで避難できなかった女性たちなどは赤を助けたという名目で強制的に性的奴隷で作った。以後1960年代まで東亜日報が報道したが言及タブー、忌避されて次第に忘れられて1990年代後半から公論化され始める。

大韓民国国軍あるいは米軍に性暴行された韓国軍慰安婦の存在は1990年代後半から大韓民国内で公論化され始めたし、2002年2月女性運動家キム・クィオク、カン・ジョンスクなどによって大韓民国国軍慰安婦の実際の存在が初めて公開された。 韓国軍が1951年から1954年まで'特殊慰安対'という名前で固定式あるいは移動式慰安婦制度を導入して運用したことは否めない歴史的事実で、これは陸軍本部が1956年に編纂した公式記録である《後方戦死》(後方戦史)(要人便)と目撃者の証言で後押しされた。[3]韓国軍慰安婦は日帝強制占領期間、 太平洋戦争当時日本軍慰安婦運営をモデルでして運営された。

日本軍慰安婦に続き朝鮮戦争前後にあった韓国軍と米軍による韓国女性に対する性犯罪の存在に対する調査と陳述確保などが女性団体を中心に進行中にある。


一部で女勤労挺身隊(女子勤労挺身隊)慰安婦を混用して使うが、女挺身隊と慰安婦は違う。女挺身隊は日帝強制占領期間当時日本政府に徴用されて、一般医労働を強要された女を称する反面慰安婦は一般医労働の代わりに性的な行為を強要された女を称する。 '挺身隊'の'挺身'とは'率先して先に立つ'という意で適切な用語ではない。しかし米軍慰安婦は警察と公務員たちに'慰安婦','挺身隊'呼ばれていた。[1]挺身隊韓国軍慰安婦は日帝強制占領期間、太平洋戦争当時日本軍慰安婦運営をモデルでして運営された。女性たちは補償を要求して戦っている。[4]
[編集]概要

日帝強制占領期間の時強制徴用、拉致、情夫によって売買など多様な方法で引きずられて行った日本軍慰安婦問題が公式に言及されながら韓国軍慰安婦が存在したという推測が出てきたし、これはまもなく事実と確認された。韓国軍慰安婦問題やはり1990年代後半から徐々にあらわれて論議がおきている。 これら韓国軍慰安婦は左翼占領地にあった女性たち中赤を助けたという理由で10台~ 20台女性たちを強制的に引っ張っていって韓国軍の性的奴隷で作る蛮行をチョジルルンことを意味する。韓国政府の関与の下で数十万人の女性たちが米軍慰安婦になった。[5]しかしこれらの転載は徹底的に隠蔽されて1990年代後半から水面上に浮び上がり始めた。

その後2002年3月金貴玉博士が日本新聞にのせられた韓国軍慰安婦存在の証拠を公式発表して話題になった。[6]また、その年3月には韓国挺身隊研究所カン・ジョンスク研究委員が韓国軍'慰安婦'問題に対する文を発表した。[7]また、朝鮮戦争に韓国軍指揮官で出場したキム・ヒオ将軍(予備役少将)やはり韓国軍慰安婦の存在を証言した。 キム・ヒオの回顧録<人間の香り>.34年間の軍生活で朝鮮戦争当時初めて見た公開的軍慰安所運営事例に対して'永遠に気まずい記憶'で記録している。[7]

2007年には世宗(セジョン)大学校パク・ユハ教授によって"朝鮮戦争の時韓国軍も慰安対を運営したという事実、研究が出てきた。[8]"はことが発表されることもした。 韓国の慶南(キョンナム)大客員教授であるキム・クィオク博士はまた、2002年2月23日日本京都のリスメイカン(立明館)大学で開かれた国際シンポジウムに出席、日本軍の慰安婦制度をまねた慰安婦制度が韓国軍にもあったと発表して朝鮮戦争当時韓国軍慰安婦の存在やはり世界に知らされることになった。 明らかにならないで隠蔽中の韓国軍と米軍による性犯罪の存在に対する調査と陳述確保などが女性団体を中心に進行中にある。
[編集]開始

韓国軍慰安婦を最初に設置した人物はまだ明らかにならないでいる。ただし1948年創軍当時の軍首脳部人脈がほとんどの日本軍・関東軍出身だったが、二人の総長全部日本陸軍士官学校出身だ。 朝鮮戦争時期に慰安婦制度を目撃したキム・ヒオ将軍(予備役陸軍少将)の"過去日本軍隊従軍経験がある一部連帯幹部が負荷詐欺(士気)高揚のための発想から始まったこと"という証言はそれに対する端緒を提供する。キム・クィオク博士も"軍慰安婦創設のプランナーが明らかに日本軍や関東軍出身者やそれに(彼に)影響を受けた者で推定することができる"と明らかにする。[3]

キム博士は<後方戦死>記録と予備役将軍の回顧録、そして関係者証言などを土台に当時国軍は直接設置した固定式慰安所と移動式慰安所そして私娼の職業女性を利用する三種類の方式で慰安婦制度を運営したと主張する。 まず<後方戦死(要人便)>の'第3章1節3項特殊慰安活動事項'記録を見れば軍慰安対設置目的は次のとおりだ。[9]

“ 表立った事理だけを持って簡単に国家施策に逆行する矛盾した活動だと断案といえば別問題かもしれないが実質的に詐欺(士気)高揚はもちろん戦争事実に従う避けられない弊害を未然に防止できるだけでなく長期間交代(教大)ない戦闘によって後方来往がオプスニマンチ異性(理性)に対する東京で引き起こされる生理作用による性格の変化などでうつ病およびその他 支障を招くことを予防するために本特殊慰安対を設置することになった。[9] ”


[編集]設置場所

朝鮮戦争当時韓国軍慰安婦の慰安所は確認されたことだけソウル、江陵(カンヌン)、春川(チュンチョン)、原州(ウォンジュ)、束草(ソクチョ)など7ヶ所が設置運営された。<後方戦死>記録によれば慰安対が設置された場所はソウル地区3個の小隊、江陵(カンヌン)地区1個の小隊、その他春川(チュンチョン)、原州(ウォンジュ)、束草(ソクチョ)などの地で総7ヶ所に達する。 しかし慰安対規模に対しては<後方戦死>内で道(ド)前後の記録が違って正確なその規模を算定するのが難しい。 <後方戦死>の一部記録(148ページ)には慰安対規模がソウル地区第1小隊19人、江陵(カンヌン)第2小隊31人、第8小隊8人、江陵(カンヌン)第1小隊21人など総79人になっている。[9]しかし他の地域にも韓国軍慰安婦詰め所や慰安所の設置の有無は現在の確認、追跡中にある。

<後方戦死>の'特殊慰安対実績統計表'( <後方戦死> 150ページ)には慰安婦数は概略ソウル第1小隊19人、ソウル第2小隊27人、ソウル第3小隊13人、江陵(カンヌン)第1小隊30人など総89人になっている。したがって前後の脈絡で見る時電子の記録は誤記で後者の'実績統計表'が正確なことに推定される。 もちろんこの統計もその他(春川(チュンチョン)、原州(ウォンジュ)、束草(ソクチョ)などの地)地域慰安対は含まないでいる。[9]
[編集]証拠


米軍に生け捕りされた朝鮮人民軍看護婦.逮捕された女性は強姦などによって慰安付加されることがあった。[10]



<後方戦死>にのせられた'特殊慰安対実績統計表'は1952年度に4ヶ所のままに編成された慰安対89人が年間20万4560人の病歴を'慰安'したと記録している。慰安婦1人が一日平均6~7人の将兵を慰安したのだ。 また、チェ・ミョンシン・チャ・キュ壊した・キム・ヒオなど予備役将軍も朝鮮戦争期間に経験した慰安婦制度に対して"表わしたくない恥ずかしい軍部の恥部だが事実だ"と証言している。[3]これら韓国人慰安婦女性たちは韓国軍将校らと仮病の性のオモチャ役割をしなければならなかったし、一部は米軍の性的奴隷にも活用された。

これらは主に朝鮮人民軍女性軍、女パルチザン ゲリラ、その他に朝鮮人民軍や中華人民支援軍(郡)占領地内の住民である女性中そこまで避難できなかった女性たちが主対象だった。

既存の資料どこにも慰安婦停滞(正体)に対する言及はなかった.韓国軍'特殊慰安対'という事実上の公娼と指摘される。[3]当時国軍が設置して運営したこの'特殊慰安対',すなわち固定式慰安所の性格が事実上の公娼であったという漸移だ。 例えばグンの公式記録には"休戦によりこのような施設の設置目的が解消されることに達して公娼廃止の鳥類に順命して短期4287年3月これをいっせいに閉鎖した"(<後方戦死> 148~149ページ)でなっている。グン自らが'特殊慰安対'を公娼と認定していることだ。[3]

檀紀を西紀で換算すれば、慰安所を'いっせいに閉鎖'ある時点は1954年3月だ。ところで1947年11月11日米軍政庁が公布した公娼廃止令(領)(法律第7号)が発効された時点は1948年2月からだ。明確な記録はないが慰安所設置時点は1951年と推定される。 したがってグンは公娼廃止令(領)にもかかわらず、1951年から1954年まで約3年間不法に公娼を設置・運営した法律違反行為を行ったのだ。[3]

キム・クィオク博士によれば、ただしいくつかの文献では少なくない帰還日帝軍慰安婦が朝鮮戦争当時性売買業に流れて行っただろうという経験的陳述に沿った推定だけあるだけだ。 1996年から束草(ソクチョ)で越南(ベトナム)民研究をしてから初めて韓国軍慰安婦問題に対して関心を持って関連者をインタビューしてきたキム博士の推定によれば慰安婦の停滞(正体)と類型は何種類に分かれる。[3]

キム博士がまず注目したことは、たとえ小規模ではあるが日本軍国主義の'慰安婦'募集形態をぐいっと抜いて似ていた形態の慰安婦が存在したという事実だ。それはすぐに北朝鮮派遣工作員と慰安婦の'不幸な出会い'だった。匿名を要請した北朝鮮派遣工作員出身要人とのインタビューを通じてキム博士が明らかにしたこの最初類型は拉致と強姦によって'慰安婦'になった事例だ。[3]
ムン・某(69)氏は1951年5月頃原産沖合いにある島で他の女性同盟員3人と一緒に集まっていて当時原産沖合いの女道で諜報工作活動をした北朝鮮派遣工作員に拉致されてその中1人(イ・某副士官)に強奪された後に強制的に'慰安婦'になったケースであった。

ムン氏は結局1953年7月停電になる時まで女道でこの副士官の子供を産んで一緒に住んだ。共に拉致された他の女性たちも昼間には軍人のご飯と洗濯をして夜には'慰安婦'にならなければならなかった。こうしたことは近隣譲渡でもあった。 キム博士によればムン氏を拉致した北朝鮮派遣工作員チェ・某氏は"部隊内に慰安婦を連れているのは誤りだが、'私たち'が'日本軍'とは違うのでないか、私たちとは征夷通じないかや拉致した慰安婦問題に対する説明を曇った"ということだ。 また他の類型は本隊と落ちて独立的に炊事生活をしなければならなかった北朝鮮派遣工作員部隊員が'慰安婦'を雇用したケース. キム博士は自身の論文でこれらの停滞(正体)に対してこのように明らかにしている。

"北朝鮮派遣工作員1は軍慰安婦は職業的にからだを売る女性たちだったと一蹴した。 北朝鮮派遣工作員2度これに対し同意した。 ところで北朝鮮派遣工作員1や2があった原産先んじることに慰安婦で来た女性は'その島にきて軍人食事の仕度をして洗濯すればある元手用意することができる'という話にだまされてきたと工作員2は交錯する証言をした。 戦争未亡人として生活苦に苦しめられながら一種の'軍労務者'になったことは彼の選択だったとしても軍慰安婦になったことは断ることはできない強制的という状況で起きたことだった。 さらに拉致された女性たちに選択権や拒絶権は与えられなかった。"

朝鮮戦争期間に韓国軍と米軍が逮捕した人民軍看護婦. 当時逮捕された北朝鮮女性の一部は強姦にあったり強制的に'慰安婦'になった。
朝鮮戦争直前に当時38度線南である甕津半島(オンジンバンド)を訪問して女子学生のお迎えを受けた国連現場視察団. 1950年10月~12月北朝鮮地域を占領した米軍と韓国軍の一部将校は中国共産軍の介入で後退しながら一部女子学生を'特殊目的'で同行38度線を越えたことが明らかになった。
1950年当時医科大学生だったイ・某(73)氏は拉致または、強要によって軍慰安婦になるところだったまた他の女性の事例だ。 6・25当時ソウルに残って人民軍に協力したことために国軍に逮捕されたイ氏は他の女医大生3人と共に引き渡された部隊の将校4人に'配分'なった。 イ氏は幸い自身をかわいそうにここはある将校の助けで解放されたが他の3人はその時以後再び見ることはできなかった。[3]


拉致または、強要によって事実上のグン'慰安婦'役割をした事例は多くないが朝鮮戦争に参戦した予備役将軍の回顧録にも一部登場する。1951年8月陸軍少尉(総合31期)で任官して1984年8月陸軍少将で予備役に編入したキム・ヒオ将軍の回顧録<人間の香り>(2000年)がそれだ。

1951年8月任官するやいなや東部戦線修道士団(師団長ソン・ヨチャン)に配属されて香炉峰(ヒャンノボン)戦闘に参加したキム・ヒオ将軍が当時に導いた小隊員はほとんどの修道士団が咸鏡道(ハムギョンド)に進撃して中国共産軍の介入で興南(フンナム)撤収作戦時に帯同38度線を越えた主に咸興(ハムフン)-原産地駅高校出身の現地入隊青少年だった。 ところで当時国軍は男子学生だけでなく一部女子高生も'特殊目的'で同行38度線を越えたものとみられる。

北朝鮮女性拉致して'慰安婦'で利用することもキム・ヒオ将軍の回顧録によれば、以後電線を抜け出した修道士団は1951年11月~1952年4月智異山(チリサン)共産軍討伐作戦に動員されて当時南原(ナムォン)に位置したペク・ソンヨプ将軍が導く西南地区戦闘司令部配下主力部隊で8師団などと合同で作戦に参加した。 キム将軍は小隊長時期討伐作戦途中智異山(チリサン)の戦闘地域指揮所で目撃した光景をこのように記録している。

“ 大隊長テントの中で明らかに戦闘服を着用した少女1人が出てきて伸びを展開して体操をしているのではないか!選任下賜にどうしてなった英文なのか尋ねると大隊長が北進当時咸興(ハムフン)女子高生を愛妾で一緒に、撤収して作戦期間中順天(スンチョン)に迎えて最近OPで伴ったとのことだった。 少し後大隊長室でセスンムル大佐指示があったのか当番病が飯ごうで水を暖めて持っていっていた。[3] ”



キム将軍は当時行軍する時綿ふとん寝具と女化粧品箱が戦闘小隊員の隊列の中でリュックサックの上におまけにのせられていく悲しい現実を目撃して怒ったが、占領地での強姦と拉致は事実一度や二度ではない状況だった。 '軍慰安婦'になるところだった前のイ・某氏と国軍出身で人民軍解放戦死になった非転向長期囚ヤン・ジョンホ氏や他の国軍出身者などの証言によれば、国連軍と国軍は1950年10月~12月北朝鮮地域を占領した間相当数の民間女性たちを強奪したものとみられる。これに対してキム・クィオク博士はこのように推定する。[3]

"特に左翼賦役疑惑がある若い女性に対する強姦は実際および仮想的に対する統制および馴致方式の一つであった。非公式的に1950年にも軍慰安婦や慰安対は存在したものとみられて、かえってグンの風紀紊乱を憂慮して1951年以後軍慰安対を公式創設したし一線軍部隊でも非定期的に軍慰安婦を動員したものとみられる。[3]"

そしてこのように民間人強姦と拉致によってすでに'慰安婦'生活を経験した女性たちの相当数は自暴自棄の心情で私娼に流れて行って再び'軍慰安婦'という公娼に編入される悪循環を繰り返したと推定される。[3]
[編集]人員

この部分は一部分文です。互いに知識を集めて充実して文書を完成して行きましょう。



朝鮮戦争当時慰安婦の規模は発掘作業中にある。キム・クィオク博士は"現在では朝鮮戦争当時公式・非公式的慰安婦規模を知る術がない"と前提にしながらも"ただし戦争直前私娼の規模を凌駕することだと推定するだけだ"と話す。[3]
[編集]論議

予備役将軍が記憶するまた他の類型は売春街で買い入れてきた貧しい女性たちに関することだ。このような女性たちに対する'慰安'の代価は師団恤兵部や連帯要人処で支出したということだ。しかしこれらの証言でもあらわれる明らかな事実は展示下に特別慰安対を利用することその他にも前方の部隊は必要に応じて軍慰安婦を採用できようがものとみられる。 それでキム・クィオク博士は軍当局が明らかにした慰安対廃止時点に対しても次にと問題を提起する。[3]

"軍部隊が公式運営した公娼としての慰安対は1954年3月に消滅したのか分からないが、北朝鮮派遣工作員の証言では事実上の慰安対が存在している。 その慰安対は私娼の形式で存在するが軍部隊が公式的な'厚生費'の名目で支出して北朝鮮派遣工作員に対する褒賞の形態で存在してきたようだ。"[9]公娼制と比較して展示状況でグンによって管理される軍慰安所は慰安婦の人権を保証されるのがさらに大変だった。[11]

以後朝鮮戦争が終結しながら韓国軍が正しい存在で美化されることにより韓国軍慰安婦の言及自体が忌避、ダブー視された。これを論じて韓国国軍の残忍性を批判、非難する者は赤に集まって罵倒されることもした。
[編集]日本軍慰安婦との比較

韓国軍は朝鮮戦争の時日本軍慰安婦を模倣して韓国軍慰安婦を作った。朝鮮戦争期間中の韓国軍慰安婦制度は旧日本軍'従軍慰安婦'制度をまねた跡にもかかわらず、二制度は本質的に違う。 韓国軍慰安婦は慰安婦動員方式や規模などでも旧日本軍従軍慰安婦と比較にならないが、何よりも後者は強制性を帯びている国家動員体制の一環で施行されたという点が違う。[3]

日帝強制占領期間に成り立った日本軍慰安婦は国家総動員法とかみ合わさって韓国軍慰安婦に比べてその被害規模がより大きくならざるをえなかった。
[12]

しかしこうした根本的な差にもかかわらず、韓国軍慰安対は設置動機や運営方式面で日本軍従軍慰安婦制度をまねて似た姿をしたことまた、事実だ。例えば慰安所の前で列をつくって慰安婦を待つ軍人らと戦闘力損失を防止するために定期的に性病検診をする軍医官の姿などは日本軍従軍慰安所の風景と違うところがないことだ。[3]

韓国軍慰安婦は設置動機や運営方式面で日本軍慰安婦制度をまねて似た姿を帯びた。[3]慰安所の前で列をつくって順序を待つ軍人の姿と戦闘力損失を防止するために定期的に性病検診をする軍医官の姿などは日本軍慰安所の風景と違うところがなかった。 また、日本軍が'軍票'を使ったとすれば韓国軍は'チケット'を使うことによってその取り引き形式も似た姿であった。[3]

一方、'軍票'は日本の主な銀行がいつでもお金で交換する一種の'有価証券'だった。[3]日本右翼はこれを前に出して軍慰安所制度を一種の公娼制のようなことで正当化したりもする。 しかし公娼制が国家が売春産業を統制した場合ならば慰安所の場合は展示という状況で国家よりさらに強力な力を発揮する軍が管理・運営の主体という点で被害女性たちに対する人権蹂躪はさらに深刻にならざるをえなかった。[3]
[編集]影響

1980年代初期までしても論山(ノンサン)陸軍訓練所や前方部隊には軍人を相手に営業する売春業者が存在した。[3]軍人は論山(ノンサン)訓練所塀を越えればいわゆる'毛布部隊'に会えたのに、いわゆる'毛布部隊'という訓練所塀外で毛布一枚を持ち歩きながら訓練兵を相手にソン罵倒をする人々を称した。

'毛布部隊'という訓練所塀外で毛布一枚を'武器'みなして訓練兵を相手にする売春婦の俗称.このような移動式私娼形態の毛布部隊員の話は美談や神話のように美化されることもした。[3]


ソース・自動翻訳による
天に姉弟二人の神がいた。ある日、姉は弟にいった。
「地上におりて人間と一緒に生活し、ともにはたらいて彼らをおさめなさい」
 弟は姉の指示をうけて地上にくだり、人間とともに暮らしながらよくはたらいた。しかし、稲がなく、ほかの穀物も十分ではなかったので、いつも食物にこまっていた。そこで、弟は天にもどって姉に告げた。

「地上に稲がなく、食物に困っております」
「なにも困ることはありません。春になったら、私が稲の穂を天から蒔いてあげますので、地上にもどって大地をよくたがやして待っていなさい」
 姉はそういって、弟をふたたび地上に帰した。弟は地上にもどると、人間といっしょに大地をたがやした。
 
そして春になると、大地に籾が芽を出し、稲が成長した。秋にはたくさんの米を収穫することができた。それ以来、人々は稲を栽培しつづけているのである。

(森田勇造『アジア稲作文化紀行 女たちの祈りと祭りの日々』雄山閣出版、二〇〇一年)
天に姉弟二人の神がいた。ある日、姉は弟にいった。
「地上におりて人間と一緒に生活し、ともにはたらいて彼らをおさめなさい」
 弟は姉の指示をうけて地上にくだり、人間とともに暮らしながらよくはたらいた。しかし、稲がなく、ほかの穀物も十分ではなかったので、いつも食物にこまっていた。そこで、弟は天にもどって姉に告げた。

「地上に稲がなく、食物に困っております」
「なにも困ることはありません。春になったら、私が稲の穂を天から蒔いてあげますので、地上にもどって大地をよくたがやして待っていなさい」
 姉はそういって、弟をふたたび地上に帰した。弟は地上にもどると、人間といっしょに大地をたがやした。
 
そして春になると、大地に籾が芽を出し、稲が成長した。秋にはたくさんの米を収穫することができた。それ以来、人々は稲を栽培しつづけているのである。

(森田勇造『アジア稲作文化紀行 女たちの祈りと祭りの日々』雄山閣出版、二〇〇一年)
カレンダー
03 2024/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
フリーエリア
最新コメント
最新トラックバック
プロフィール
HN:
沢庵 熊八
性別:
男性
職業:
自営業
趣味:
古代史・歴史小説・釣り
自己紹介:
父は会津、母は信濃出身で、どうみても縄文系の熊八です。北海道生まれで、関東育ち。現在は相模の国に住まいしております。
バーコード
ブログ内検索



HOMEへ戻る
忍者ブログ | [PR]
Copyright © 沢庵 熊八 All Rights Reserved.
shinobi.jp