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ヤフー掲示板にて、時折出没しております、kuma8_takuan と申します。 今まで書きなぐってきた物などを多少なりとも整理できましたらと思い、 不慣れながらブログというものにTryしていきます。 
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以下の文章は、ヤフー掲示板、大韓民国、日本人は百済から来たのか?トピックにて2004/ 6/12、 kuma8_takuan 名により投稿したものです。


今回は、古代東アジアの妻問い婚について考えてみたいと思います。

匈奴

“匈奴は北方の境外に住んで、牧畜をしながら移動する。家畜には馬・羊・牛が多い。水や草の良いところを求めて移りゆき、都市も固定家屋も田畑もない。しかしそれぞれ領分の土地はある。子供は羊にまたがり、弓を引いて鳥やネズミを射る。少し成長すれば、狐や兎を射て、食用に当てる。大人の男で弓を引き絞れるものは皆騎兵になる。習慣として、平和時には家畜の世話をし、鳥や獣を射ることを生業とする。緊急時には、全員が軍人となって戦争に出かける。これが彼らの生まれつきである。遠距離戦用の武器には弓と矢、近距離戦用の武器には刀と槍がある。戦況が有利ならば前進し、不利ならば後退して遁走することを恥じない。君主から以下、みな家畜の肉を食い、なめし革を着、フェルトや毛皮をかぶる。壮年のものは脂の乗ったうまいところを食い、老人はその余りを食う。壮年で力強いものを尊敬し、老いて弱い者を卑しむ。父が死ねば、息子はその継母と結婚する。兄弟が死ねば、その寡婦と結婚する。人には名前があるが、呼び捨てにして平気で、姓や字はない。”(匈奴列伝より)

夫餘

男女淫ら、婦人妬なるは、皆これを殺す。尤も妬なるを憎み、すでに殺すや、この尸は国南の山上(に置き)、腐乱に至らしむ。女家(この屍を)得んと欲せば、牛馬を輸(いた)しすなわちこれを与う。兄死して嫂を妻とするは、匈奴と同じ俗なり。その国、牲(家畜)を養うに善く、名馬・赤玉・貂[犬穴]・美珠を出す。珠の大なるは、酸棗(やまなつめ)の如し。

高句麗

女家小屋を大屋の後ろに作る、名は婿屋、婿は暮れに女家の戸外に至り、自ら名乗り跪拝し、女宿に就くを得るを乞う、この如く再三し、女の父母すなわち聴(ゆる)し小屋中の宿に就かさしむ、傍らに銭帛を頓(お)く(傍頓錢帛。“頓”をおくとする用例は大漢和にもないが、学研漢和大辞典には“とんとおく”と見える。ちくま学芸文庫は、貯蓄すると訳す。小学館の新選漢和辞典には“たくわえる”という意味があり、大漢和には“たくはへ”という名詞形がある。“傍”はかたわら以外の意味が見つからない。ちくま学芸文庫の訳文には“同棲すると同時に”という文言があり、“傍”を同時の意味で捉えているものと思われる。)、生子すでに長大なるに至り、すなわち婦を將(ひき)いて家に帰る。その俗淫。男女すでに嫁娶するや、すなわち送終の衣を作す。厚く葬り、金・銀・財・幣、死を送るに尽す。石を積みて封となし、列に松柏を種る。その馬皆小、登山に便。国人気力あり、戦闘に習(な)れ、沃沮・東[シ歳]皆これに属す。また小水貊あり、句麗国を作すに、大水に依りて居す。西安平県の北に小水あり、南流し海に入る、句麗の別種、小水に依りて国を作す、よりてこの名を小水貊となす、好き弓を出す、所謂貊弓これなり。

             三国志魏書 東夷伝 より

  ○匈奴・夫餘には、妻問い婚は見えないようです。馬韓・辰韓・弁辰条にも、特段 妻問い婚を思わせる記述はみあたりませんが、


婚姻 韓国
     
    
アイヌ

 アイヌ民族の家族は、一つの家屋に一組の夫婦と子供たちが住み、子が成長するにつれ、新たに家を建てて分かれていくことが多かった。かつては、娘が婚期に達すると、地続きに小さな家を造って一人住まいをさせ、求婚に訪れる青年の中から両方の気の合う者を選んで婚姻が成立するという習慣もあった。この場合、青年がそのまま残ることもあるし、娘の家の仕事をある期間手伝った後、娘を連れて自分の家に帰ることもあった。長男は両親の家の近くに新しい家を造り、両親の面倒を見ると共に父系の財産を継いだ。妻が死ぬとその家を焼き、夫は再婚するまで近親の家などに住んで家を持たなかった。そのことから、妻を失った男を「家のない男」といった。

 アイヌ民族を構成する単位は個人ある。夫婦関係にしても、一方の死や離婚によってその関係は消滅する。親子の関係は、父と息子、母と娘の関係が強調されている。同じ両親から生まれた兄弟姉妹関係においてもアイヌの人々は男女の区別が強く、兄弟と姉妹との関係は分離され、兄弟同士、姉妹同士の関係が強調される。その関係は子や孫にまで適応され、親族の結合の基礎をなした。そのため、男女を含む家族や氏族のような社会集団を単位とする名称は存在していない。

      北の生活文化より


母系社会 中国雲南省モソ族

 モソの人たちは人口約1万人、一般には、納西(ナシ)族(約30万人)の中の1グループとされるが、モソの人たちは固有の民族であるとして、モソ族と名乗っている。 ここでは、女性たちは成人すると家の別棟に部屋を与えられる。男性は、その家の娘が好きになり、娘もいいとなったら、男性は女性の家族に知られずに、娘の部屋を訪ねることができるのである。そうして通ってくることを「走婚」という。
 この村の婚姻の形態には、(1)走婚、(2)一夫一妻の結婚、(3)初めは走婚だったが、後で結婚の形をとって独立したもの、の三つがある。婚姻形態としては走婚が圧倒的に多数を占めている。 子どもは女性の家族がみんなで育てる。家の子どもとして育てるのだという。このとき、子どもの「舅々(チウチウ)=おじさん」、つまり、母の兄弟、がいちばん子どもの教育の責任を負う。人としての善悪や、社会生活のきまりなどは、舅々が子どもに教えるのだそうだ。子供たちがいちばん怖いのは、舅々で、その舅々にしっかりとモラルを教え込まれているので、この村のこどもたちは、泥棒やスリはいない、夜どの家も鍵をかけないでいいという。
 生みの父親は自分の子どもの養育・教育にはいっさいかかわらないが、自分の子どもの代わりに姉妹の子どもたちを育てているわけである。また、この村の子どもたちは、自分の父親がだれであるかは知っているが、その男性が来ても「パパ」とは呼ばすに「舅々」と呼ぶ。子どもは家の子どもであり、村の子どもだという意識が強いのだ。
 どの家の家長も女性である。その家族の中で、最もよく働き、家の管理のうまい女性が選ばれる。長女である必要はない。選ばれた女性は、選ばれたことを誇りに思い、家の繁栄のために真剣に取り組む。
 家計の現金収入は、男達が観光業に従事して得てくる。男達が得てきた収入は、自分の小遣いを残してそれ以外は家長に渡す。家長は大きい金額の出費は家屋で相談するが、ふつうは家長の采配に任される。
 走婚は、ずっと家族が一緒でいられる。子どもができても、家族でみてくれるから、仕事に専念できる。一方、結婚は、好きな人といつも一緒にいられる。何かあると、2人で相談して決める。モソの家族では全員のことを考えないといけないから、煩わしいこともある。また、男の多い家は繁栄できないというデメリットもある。

                結婚制度・家族制度 より

母系社会
  


「招婿婚」をめぐっての高群説と文化人類学の対立

   「招婿婚」とは人類学でいう母処婚(妻方居住婚)なのです。高群氏は推古天皇以前の時代は「妻問い婚」、飛鳥・奈良・平安初期は「妻問い婚」と「招婿婚」の併存、平安中期に「招婿婚」が成立し、平安末期には経営所婿取婚(新居による婿取り)と衰微し、室町以降に嫁取婚へと完全に移行するといわれます。この史実そのものについては、高群氏と人類学とに、それほど認識の差はないのです。高群氏は、この「招婿婚」を母系制社会から父系制社会への移行過程として、母系制の存在を主張さたのです。  

 他方、人類学は平安貴族の「招婿婚」は母処婚ではなく、一夫多妻制の落とし子と主張されています。その理由は、結婚後に夫婦がそのどちらに住むかという居住形態の問題は出自の問題と法則的な関連があって、母処婚は母系出自と深く関係するからです。「高群らがいうように平安時代まで妻問婚や招婿婚が行われていたとすれば、すくなくとも母系制が貫徹していたことになる。だが、階級支配の貫徹する私有財産制のもとで、母系制が存在したという例は、未だ聞かざるところである。・・・・マードックが世界の二百五十の民族の事例を統計的に分析したところ、父系制社会のもとで妻方居住婚を採用している民族は全く存在しなかったのである。このことは、父系制社会のもとで、母系制への変化するということがあり得ないことであることを示している」(『国史大辞典 』)。誠にきついお言葉で、断固拒否の態度です。父系制社会で母処婚に進むという、あり得べき逆行現象が起きているのです。

  ①妻問い婚→ ②妻問い・母処婚→③母処婚→④妻方・父処婚→⑤父処婚→⑥足入れ婚        ∥
    (妻問い・母処婚)→ 「招婿婚」→経営所婿取婚→

   しかし本書の立場からは、この問題は簡単なのです。右のシェーマ図をご覧ください。日本社会の出自を先住の倭人と征服者の渡来人の二つの重なりとして把握しないからなのです。「妻問い婚」は子供が妻のもとにいるのですから、核家族の形成として母処婚に移行するのは自然の成り行きであり、法則的な動きといえましょう。即ち倭人社会の「妻問い婚」がようやくにして母処婚まで発展してきたのです。しかし現実の政治などの組織は父系制でないと運営できないのです。ですから父系制の網が母系の上に被せられているのです。注目すべきは、この「妻問い婚」から母処婚の発展が貴族社会に起こり、民衆は、既に見てきましたが、「妻問い婚」から一部父処婚に移行したことです。これは貴族社会では法則的に発展したが、民衆は律令制という権力者の風圧によって父処婚に移行させられたということでしょう。

   「妻問い婚」は世界にまれな婚姻の形態なのです。この婚制は上古の大家族制のインセスト・タブーの狭い母処婚=父処婚の世界で生まれたものと考えられます。ですから、現在ではほとんど見られず、もはや失われた婚制となりましょう。日本社会でこの婚制が残ったのは、権力者によって民衆の生活が貧困に据え置かれた結果の上古社会の残滓と推定されます。ところが、遺制として残った「妻問い婚」とは、男性は単に種馬ですから、強力な母権的社会となりましょう。ですから、「妻問い婚」は裏返しに、日本社会に母系的な要素を異常に多く残す結果となったのです。最大の権利は女性が生まれたままの家族共同体に結婚後も残る権利です。

     改訂 新・騎馬民族征服王朝説 より

○以上、各民族の妻問い婚についてみてきましたが、形態について若干の違いが あるものの列島にも半島にも古代の習俗として妻問い婚があった事が解ります。

ここで気になるのは

魏書東夷伝倭人条

其の俗、国の大人は皆四・五婦、下戸も或は二・三婦。婦人淫せず、妬忌せず、盗窃せず、諍訟少なし。其の法を犯すに、軽き者は其の妻子を没し、重き者は其の門戸及び宗族を没す。

○ここのところは難しいですね。”国の大人は皆四・五婦、下戸も或は二・三婦” 通う先が、四・五婦 或いは 二・三婦 なのか?  それとも、男性の家に居 るのか? 
 また、魏使が訪れた時期が倭国大乱の後の異常事態だったのか?
いずれにせよこの後、男女相系の時期を経て仏教・儒教の浸透を背景に父系制が 確立していきます。 

    〈古代〉 670年庚午年籍(こうごねんじゃく)
    「子は其の父に配(つ)けよ→父系制の原則が法的に確立。
    それにもかかわらず夫婦は別氏、妻は生家の氏を名乗る。
    結婚は本人同士の意志で妻問いから始まり、一定期間の通いを経て夫が妻方に住み着く(妻方居住)ものが多かった。→『万葉集』でも妻問いの歌が多い。
〈中世〉 *律令制の崩壊に伴って、戸籍は編成されず。
    嫁入婚に移行、縁者同盟の重視→しかし、結婚後も生家の氏を。(北条政子)
〈近世〉  妻は夫に従う身分でありながら、結婚後も生家の氏を名乗る。
(武士の場合)    宗門人別帳、過去帳→宗門による登録制度。
(庶民の場合)    母、姉、女房といった続柄のみの記載。(氏どころか名前の記載もなし。)

       婚姻制度・戸籍制度の歴史 より



婦道



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