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ヤフー掲示板にて、時折出没しております、kuma8_takuan と申します。 今まで書きなぐってきた物などを多少なりとも整理できましたらと思い、 不慣れながらブログというものにTryしていきます。 
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お隣、朝鮮半島の始祖の母は、熊女とも言う

檀君神話
http://www.lifeinkorea.com/Information/tangunj.cfm

熊には、黒という意味もあるらしい。
黒いから熊でもあるわけだろう。

黒をスミと言うこともあるらしい。この場合は、墨なのだろう。

熊野大角命の大角は、オホスミともオホクマとも訓むらしい。


スミと言えば、神様の呼び名でもある。

住吉とか墨江とも書くが、海人系の綿津見を祀っている。


海人で先ず思い浮かぶのは安曇だ。安曇にもスミが入っている。


そう言えばスサノオの後裔氏族とされるのが、住道スムチの首さんだ。

大己貴(おおなむち)綿津見(わたつみ)山祇(やまつみ)
  

サァァァァ   解からなくなってきたぞ ォォォォォ~


          ?(・o・)?


PR
日前国懸神社

http://www10.ocn.ne.jp/~hinokuma/menu01.html


ひのくま、檜隈、日前とも書くが、このヒノクマとは何だろう?

熊野信仰というのがあるが、それは何かと考えてみた。
熊野神社と言えば大概、素戔嗚尊や伊弉奈彌命や伊佐奈枳命
を祀っている出雲系神社と言える。では、このクマ kuma って
多分 ”神”様か何かを指す言葉なのだろうけれども今市解からない。

檜隈は、 日神 のこと ???


飛鳥の檜隈は、地図で見ると東西に山の稜線が走っているので、
多分朝晩は日陰になるような地形に思える。
だとすれば、檜隈は → 日陰 であって”日神”とは思えない。

まして 日前 ←ではなく 日後 でも良いくらいではないか?


日前国懸(ひのくまくにかがす)ってクニカガスとは、国を輝かせる
という意味に思える。ではこの場合のヒノクマって r(・_・;)



日前 ← 夜明け前 ← 夜の闇 ← 黄泉


↑ この解釈でいくと

天孫族が奉祭する神は”日神”である。”日神”が来る前に支配していた
神は、”夜の神”である。よって スサノオ は、黄泉の支配者である。


縄文系に近いと思はれるアイヌは、熊を祭る。
熊は、豊穣と再生の象徴でもある。
熊の肉は、神様からの贈り物である。彼らはこれをミャンゲと呼ぶ。
まさに オミヤゲ である。この頂いたオミヤゲを頂っぱなしにし
おいては、翌年また神様がオミヤゲを呉れるとは限らない。
だから、お返しに熊祭りをして アッチ の世界に熊を送り返す。


これが狩猟採集民の発想である。目の前にある獲物を獲るのは、
神様からの贈り物をいただく行為にすぎない。そこにあるから
いただくのである。

  ↑ この発想は、農耕民には許されない。 そこにあるから
取ってしまうのでは、犯罪である。盗人である。

冬が近づいてくると、猿や熊が山から下りてきて畑や果樹を荒らす
ニュースを時々眼にしますが、同じことか。 (-_-);


古代、農耕民に素直に移行できなかった山の民の中にはこのような
手合いが結構いたものと思われる。農耕民から見れば、胡散臭い
危険な連中である。ある種の蔑視が発生しますね。

日本書紀  神代 上  第七段
素戔鳴尊、乃ち輜轤然(をもくるる)に、其の左の髻に纏かせる五百箇の統の瓊の綸を解き、瓊響(ぬなと)も搶搶(もゆら:正しくは王扁)に、天渟名井(あまのぬなゐ)に濯ぎ浮く。其の瓊の端を噛みて、左の掌に置きて、生す児を、正哉吾勝勝速日天忍穂根尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほねのみこと)。復右の瓊を噛みて、左の掌に置きて、生す児を、天穂日命。此出雲臣・武蔵国造・土師連等が遠祖なり。次に天津彦根命。此茨城国造・額田部連等が遠祖なり。次に活目津彦根命(いくめつひこねのみこと)。次に火速日命(ひのはやひのみこと)。次に熊野大角命。凡て六の男ます。
http://www.ikedakai.com/nihonsyoki.html


凡て六の男というのが天孫族に征服された氏族ということか?
と言うわけで


伊勢から昇った太陽は、熊野山塊に当たり様々な隈を描いて行きます。
この光の当たった部分が天照大神の領分です。飛鳥を中心に考えれば
オヒルです。やがて西の海に沈んでいきます。正確ではないけれど
西の海の出口、紀ノ川の河口に日前国懸神社があります。
光に隠された部分が隈であり。闇の支配者です。闇は、夜が明けるま
での間<前>、つまり

日没 → 隈(前の支配者)→ 夜明け ⇒ 日の再生(大王誕生)


スサノオとアマテラスで ビンゴ オォォォォォ~

と、天孫族の前の支配者をスサノオに括って出雲にホオッタほうり
不比等であろう。日前国懸神社が現地に移設されたのは元明天皇の
時代というから藤原不比等の最終の宗教政策の一環でもあったのだろう。


それが、藤原四兄弟の相次ぐ死により、疫病神とされたスサノオを
蘇らせたとしたなら、ナント皮肉なことか?

この世に恨みを残した霊魂の復讐を抑えようと、当時の人びとは
本気で信じたようだ。いわゆる御霊信仰ですな。
天神さんも一肌脱いで


結果、蟻の熊野もうでとも表現された現象が生じた。
この結果をみるとスサノオの原点は、出雲ではなく熊野のような
気がします。それとも熊野別当あたりの発明か?



坊主、丸儲け デスナ  └(゚Д゚)┘)))  


以下の文章は、ヤフー掲示板、北海道、道東、つないでDo-toトピックにて2004年2月~3月にかけて kuma8_takuan 名にて書き込んだものです。


そのとき幕外から「牛若~ 牛若はいるか」との声持った盃を置き幕外に出る義経、つづく弁慶。
見れば初老の山伏が一人。廻りを囲んだ手下の雑兵どもは、その気合に圧されてジリジリ退がる。錫杖を打ち鳴らしながら近づいてきた山伏は義経の姿を見つけると「わしじゃ、鬼一じゃ」と叫んだ。「おぉ!鞍馬のお師さま」思わず義経は叫ぶと雑兵どもを掻き分け、山伏の前に膝まづいた。
「鬼一方眼殿、鞍馬の天狗殿」後から続いた弁慶の声も涙声に変わっていた。思えば、金売り吉次に導かれて平泉へ旅立ってよりの師弟再会であった。
「まぁまぁ、ここでは、丁度しし鍋も煮えたところで」弁慶に促される ように三人は帷幕の内へ。
「何年ぶりになるかの~」と鬼一。
「かれこれ九年になります。」義経は師を招きいれながら応えた。
「よき武者ぶりとなったのぉ」と、その時、鬼一の足が止まった。
「その者は?」鬼一の目が光った。
「村の娘が酒を」と弁慶が言いかけたとき
「臨、兵、闘、者・・・・・」鬼一は、気合を込めて九字を切ると、娘 めがけて錫杖を突きたてた。娘は「チッ」というような声を発すると、 バクを切って帷幕を飛び越えた。あっけにとられた弁慶が追いかけようと するところを鬼一は「もう遅い、傀儡じゃ。」と引き止めた。
「あの娘が持ってきたものは?」と鬼一。
弁慶が徳利を差し出すと「犬にでも呉れてみぃ」と鬼一。
血の気が上がって、少々赤ら顔になった弁慶が徳利を鷲掴みに幕外に 出て行った。
鬼一は、義経に床几に坐るよう手招きすると言った。
「どうじぁ、六韜三略の道は?」


「ところで、お師さま」義経は迷いを振り切るように、鬼一に話しかけた。
「お師さまも承知と思われるが、我が本隊は一の谷の東に在り、平家軍と 睨み合いを続けておりまする。搦め手の我が隊は三草山に陣取る平資盛軍 に足止めを食い、兄範頼殿とこの義経で平家軍を挟み討ちにすると言う約 束が果たせずにいます。」義経は今までの胸のつかえを一気に吐き出すよ うに語りだした。兵法家としても名高い鬼一ならば、何か策があると思っ たのだ。
「凡そ戦いは、正を以って合し、奇を以って勝つ!」鬼一は、おもむろに 語り始めた。
「文韜、兵道篇に曰く。兵勝の術は、密かに敵人の機を察し て速やかにその利に乗じ、復た疾くその不意を撃つと。」
と、その時「方眼殿、方眼殿!」弁慶が足音を響かせてやってきた。
「案の定、犬になめさせてみたところ、いちころであった。」そう語る 弁慶の顔は、心なしか青ざめて見えた。
弁慶と眼があった義経は、決意を確認するように拳で膝を叩いた。
「いましがた失った命、何処に捨てても惜しくはない! いまこそ、父 兄の無念をはらす時ぞ! 弁慶、軍儀じゃ。皆を集めよ。」


風が巻いている。夜明け前にあがった火の手はやがて狼煙状の煙に変わり、 初春の空に舞った。三草山の麓に白旗が靡くのが鉢伏山からも遠眼に見えた。
「これで決まりかのう」先般来、山上から覗み見ていた僧形の男が呟いた。
男は懐紙を取り出すと何事か書き出した。梅の花が風に舞い、鶯が鳴きやんだ。
しのび寄った影に男は目を懐紙から離さずに呼びかけた。「まい鶴か?」
脇に膝まづいた女は、声にならぬ息を吐いた。「しくじったか、まぁそれも 栓なきこと。ところで資盛卿には伝えたのであろうな。」
「昨夜はとんだ邪魔者に遭いました。なんでも鬼一法眼とか。」
「む~、鞍馬の天狗か。坂東の猪武者どもにとんだ知恵袋がついたものよの。
難儀なことよ。して、資盛卿は如何に?」懐紙から外した眼は、問い詰める ように女を見た。
「昨夜のうちに。しくじれば必ず兵が動くとの意呂血様の言葉も伝えてござ います。また、資盛様は西へ向かわれたご様子。」
「して、この有様か。位人臣を極めるといえども所詮、戦となれば赤子同然。」
意呂血と呼ばれた男は、吐き捨てるように言った。
「儂も動かずばなるまい。三郎! 三郎は、おるか」


岩陰から動いた影が男の背後で止まった。「お呼びで」
三郎と呼ばれた男、年は二十四・五であろう。しかし、額に刻まれた深い皺が 年回り以上のものを感じさせた。
「時が動いておる」男は深く息をすると、続けて言った。
「忠度卿の元にあるお主の配下の者どもをまとめて、義経のもとへ走れ。」
一瞬、怪訝な顔をした三郎の肩に男は手を置くと「われ等は力ある者につく。
力を失った平氏とともに滅ぶ必要もあるまい。力と影は、一対のものよ。
力を握った者は、影を必要とするものじゃ。この戦、もう先が見えておる。
東西から挟み撃ちされた平氏が、海に追い落とされるのは時間の問題じゃ。」
男は立ち上がると、書き付けた懐紙をまるめ書状にし三郎に差し出した。
「これを持って山椒大夫のもとへ行け。あの者は義経のもとにいる筈じゃ。」
ひき蛙のような山椒大夫の姿が男の頭の中に一瞬よぎった。口元を僅かに 歪め、男は続けた「山城の竹山を大方買い占めたそうな。戦とは、人の命と 弓矢の消耗戦よ。あの者、源氏にも平氏にも矢玉を売りつけておる。武者供 が命のやりとりをすればするほど、あの者は太っていくという寸法よ。 平時には女子供を売り買いし、戦となれば武具の商いと、女と金につくづく 欲の深い御仁よのぉ。それゆえに、使い勝手もあるものじゃ。」と言うと男 は、若者に向かって微笑んだ。
得心したのか、三郎も口元を引き締めて笑み を返した。
「おおそうじゃ、土産よ土産じゃ、お主が忠度卿の元へつなぎをつけに通っ ておる道は、なんじゃったかのう?」思い出したかのように男は言った。
「鵯坂でございますか?」三郎が応えた。
「それよ、それじゃ。義経には、喉から手が出るような土産じゃろうて」
三郎はおもわず「あっ」と声をあげそうになった。


「一瞥いらい何年ぶりになるかのぅ。」先ほど内に声をかけた男が、大きな 目を探るように相手に注いだ。
声を掛けられた男は軽く両手を合わせると、 微笑み返した。
「よもや文覚殿からお呼びがかかるとは、思いもせなんだ。」
「まあまあ、ここで立ち話もなんじゃ。なかで一献さしあげよう。」と言う と、文覚と呼ばれた初老の男は店の中へはいっていった。
夕めしには幾分はやい店の中に客は無く、下働きの娘が運んできた膳を前に 文覚は男に酒を勧めた。
「今日お呼びしたのには訳がある。意呂血殿。」意呂血と呼ばれた男の三白 眼が一瞬光った。
「儂が今、鎌倉殿のもとで動いていることは承知であろう。」
意呂血と呼ばれた男は軽く頷くと「都の噂話では、義朝公のシャレ頭を持っ て頼朝公に挙兵を促したのは文覚和尚ということになっているぞ。」と言った。
「あっはっは!」文覚は、破顔一笑すると五分ほど伸びた白髪頭を掻いた。
真顔に戻った文覚は、顔を意呂血の方へ近づけると低い声で言った。
「実はお主に頼みがある。お主でなければ出来ぬことだ。」
文覚が、辞していった。伊呂波には、常連の顔が戻り始めていた。意呂血と 呼ばれた男は、瞼を閉じ腕組みをしたまま動かない。
先ほどの下働きの娘が 文覚の膳を下げにきたのか、男に近づいた。
男は気配を感じたのか眼を開き 言った。「まい鶴」 娘はチラッと男に視線を送ったが、そのまま膳を片付 け始めた。
「急ぎ、三郎に繋ぎを付けてくれ。」娘は軽く頷くと何事もなか ったかのように、膳を持って奥に消えて行った。
<今回の義経の検非違使の任官で鎌倉殿との兄弟の仲は決定的だな。義経も 所詮、捨て駒に過ぎぬのか? あの男、後白河院と鎌倉殿といい男二人に惚 れた女子のようじゃな。体は二つには裂けぬもの、難儀なことよのぉ。>
心の中でそうつぶやくと、意呂血と呼ばれた男は、伊呂波を後にした。
法住寺より七条大道りを西へ向かい鴨川を渡り、一つ目の四つ角を左、南へ 鴨川沿いに九条大道りに向かうと、九条大道り沿いに九条兼実の屋敷はあっ た。
文覚は屋敷の裏手に回ると内に向かって声をかけた。程なく中から閂を 外す音が聞こえ木戸が開いた。文覚は周囲をひとしきり確かめるように眼を やると、木戸をくぐった。


文覚が案内された部屋には、先客が待っていた。
「やぁやぁ、お待たせした。わざわざお呼びたてして、かたじけない。」
文覚が声をかけると、胡坐坐で坐っていた武者は、両手をつき冠を下げた。
文覚も胡坐に坐ると言った。「なにせ、しのびじゃからな。しのびじゃ。」
武者はゆっくりと冠を上げると、文覚に向かって微笑んだ。
「お久しぶりでございます。」年の頃は四十程であろうか、精悍な顔つきが 武者ぶりを感じさせた。
「今をときめく平氏追討軍の軍監殿をわざわざお呼びしたのは、頼朝公より 直々に伝えよとの仰せがあったからじゃ。のぉ、梶原殿」 と言うと、文覚は、大きな眼を梶原景時に注いだ。
「実は頼朝公のご心配いやご本音は、義経殿が後白河院に取り込まれては、 困るということよ。」と文覚は、身を乗り出すように言った。
「あの方は甚だお若い。一の谷の際にはそれが良いほうに出ましたが、今回 の検非違使の件ではそれが悪いほうに出たようです。頼朝公のご心配が現実 のものとなりました。近くに侍る者としてお恥ずかしいかぎりです。」景時 はそう言うと眼を伏せた。
「天下四分の計・・」文覚は唸るように言うと続けた「後白河院の御側には そんな事を言っておる輩も居ると聞く。西国の平氏、畿内の義経、関東の頼 朝公、そして奥州の藤原と、夫々を並び立たせ競わせて後白河院が支配する。 そのようなことは出来ようもない事じゃ。頼朝公も見抜いておいでじゃ。」
「義経殿は、断れないのです。木曾義仲のように兵で囲み幽閉されよと申し おるのではないのですが、院の前に出られると何も言えなくなってしまわれ る。まことに歯がゆい。」景時は自嘲気味に言った。
文覚は腕を組み、天井を見上げ、深く吸った息を静かに吐くと言った。
「頼朝公の言を伝える。義経に離反の動きあらば、鎌倉方の兵を一兵たりと も付けてはならぬ。今より関東の武者はお主が束ねよ、とな。」
景時は両の拳を床に付き、頭を垂れると「承知。」静かに言った。





聖数十三と三十三について
2004/ 1/ 5  ヤフー掲示板 日本史 役の行者トピックへHN tarasihikosan  名にて投稿したものです。

十三仏信仰

 葬儀場の祭壇中央にお祀りする十三仏さま(お宝さま)は、インド起源の初七日、二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、七七日の計七回の法要で七仏事。それに中国の百ヶ日、一周忌、三回忌が加わって十仏事となり、さらに日本で七回忌と十三回忌、三十三回忌が務められ、これで十三仏事となる。葬儀場にこの十三仏をお祀りして、お経、お念仏、御詠歌等を上げ一刻も早い死者の成仏を願うものです。不動明王、釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩、薬師如来、観音菩薩、勢至菩薩、阿弥陀如来、阿閃如来、大日如来、虚空蔵菩薩が十三の仏さま。

http://www6.ncv.ne.jp/~tionzi/butuziarakaruto.htm#20


●年忌と追善供養

  追善法事は、一七日、二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、七七日、百ケ日、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、(二十五回忌)、二十七回忌、三十三回忌、五十年忌、と追善する期日が定まっている。一七日から七七日までは普通に追忌と言い、一周忌からは年忌と言っている。一周忌の法事は死亡日が満一年目にめぐって来た日で、平成元年5月5日に死亡したとすれば翌年の5月5日が一周忌である。三回忌は満二年目である。
  百カ日(卒哭忌)と一周忌(小祥忌)と三回忌(大祥忌)の三つは、儒教の礼法を仏教に取り入れたものである。中国では父母が亡くなると痛哭(つうこく)するのが礼儀である。『礼記』に「士は三ケ月、太夫は五ケ月、諸侯は七ケ月にして痛哭し卒わるを卒哭と言う」とある。百ケ日の忌日を士の卒哭忌である3ケ月をとったものである。
  一周忌と三回忌は、『礼記』にある、「親死亡して13ケ月の祭を小祥と言い、25月の祭を大祥と言う」からきたものである。祥とは幸いの意味で、それまで身につけていた凶服を脱ぎ、吉服に着替える。この二つの祭を仏教に取り入れ、一周忌、三回忌とした。宋代に書かれた『佛祖統記』二十四に、
  「百日、小祥、大祥、はすべて仏事として行う。儒教によるものとはいえ、よく釈門奉厳の福を修す、どうして信じないでおられようか。」とある。ただし、七年忌以後の年忌は、日本で始められたものである。

http://www.osoushiki-plaza.com/institut/dw/199904.html


 三回忌のあとは、
 七回忌(満6年目)⇒十三回忌(満12年目)⇒十七回忌(満16年目)⇒二十三回忌(満22年目)⇒二十七回忌
(満26年目)⇒三十三回忌(満32年目)と三と七のつく年に法要を行う習わしがあります。

「供養の基本は七?」

仏教では、亡くなった方の供養をするときに、よく「七」と言う数字を用います。まず「初七日」「2七日」という風に、週に一度のお参り、「四九日」は「7日×7」。これは地蔵本願経で言う初重の累七。三回忌が終われば、七回忌。その次は十三回忌、一見六年しか経っていない様にみえるけど、実は7・8・9・10・11・12・13と7つ数えています。七回忌を「名の七」十三回忌は「実の七」と言います。この「名の七」と「実の七」を繰り返して、三十三回忌までいくと三回忌からの追善の法事はやはり7回。七というのは東・西・南・北・上・下・中心の7つで一巡りと言う考え方からきていると言われます。ついでに言えば、この数え方を考えたのは聖徳太子と言われています。これは、生貧・死貧への施しとして、生貧には施薬院・療病院・悲田院・敬田院の四施院。そして、死貧には先ほどの七回の追善の法供養を定めたと言われています。尚、一周忌・三回忌は小祥・大祥としてそれ以前から儒教の影響であった祭事だったようです。閑話休題。

http://www5d.biglobe.ne.jp/~gyokuhou/hitokuchi_005.htm


 
ここで、13と33に特にこだわって見えるのは十干十二支の影響?

干支で13と33は、

十三は、丙子(ひのえね) → 火の一番 → 日の一番 → 大日如来

三十三は、丙申(ひのえさる) → 

火の九番 → 霊(火)の久(九) → 霊の永久 → 虚空蔵菩薩

ちなみに、十七は庚辰(かのえたつ)、二十三は丙戌(ひのえいぬ)では

ちょっと・・・  難しいかな ???


以下の文章は、ヤフー掲示板、大韓民国、日本人は百済から来たのか?トピックにて2004/ 6/12、 kuma8_takuan 名により投稿したものです。


今回は、古代東アジアの妻問い婚について考えてみたいと思います。

匈奴

“匈奴は北方の境外に住んで、牧畜をしながら移動する。家畜には馬・羊・牛が多い。水や草の良いところを求めて移りゆき、都市も固定家屋も田畑もない。しかしそれぞれ領分の土地はある。子供は羊にまたがり、弓を引いて鳥やネズミを射る。少し成長すれば、狐や兎を射て、食用に当てる。大人の男で弓を引き絞れるものは皆騎兵になる。習慣として、平和時には家畜の世話をし、鳥や獣を射ることを生業とする。緊急時には、全員が軍人となって戦争に出かける。これが彼らの生まれつきである。遠距離戦用の武器には弓と矢、近距離戦用の武器には刀と槍がある。戦況が有利ならば前進し、不利ならば後退して遁走することを恥じない。君主から以下、みな家畜の肉を食い、なめし革を着、フェルトや毛皮をかぶる。壮年のものは脂の乗ったうまいところを食い、老人はその余りを食う。壮年で力強いものを尊敬し、老いて弱い者を卑しむ。父が死ねば、息子はその継母と結婚する。兄弟が死ねば、その寡婦と結婚する。人には名前があるが、呼び捨てにして平気で、姓や字はない。”(匈奴列伝より)

夫餘

男女淫ら、婦人妬なるは、皆これを殺す。尤も妬なるを憎み、すでに殺すや、この尸は国南の山上(に置き)、腐乱に至らしむ。女家(この屍を)得んと欲せば、牛馬を輸(いた)しすなわちこれを与う。兄死して嫂を妻とするは、匈奴と同じ俗なり。その国、牲(家畜)を養うに善く、名馬・赤玉・貂[犬穴]・美珠を出す。珠の大なるは、酸棗(やまなつめ)の如し。

高句麗

女家小屋を大屋の後ろに作る、名は婿屋、婿は暮れに女家の戸外に至り、自ら名乗り跪拝し、女宿に就くを得るを乞う、この如く再三し、女の父母すなわち聴(ゆる)し小屋中の宿に就かさしむ、傍らに銭帛を頓(お)く(傍頓錢帛。“頓”をおくとする用例は大漢和にもないが、学研漢和大辞典には“とんとおく”と見える。ちくま学芸文庫は、貯蓄すると訳す。小学館の新選漢和辞典には“たくわえる”という意味があり、大漢和には“たくはへ”という名詞形がある。“傍”はかたわら以外の意味が見つからない。ちくま学芸文庫の訳文には“同棲すると同時に”という文言があり、“傍”を同時の意味で捉えているものと思われる。)、生子すでに長大なるに至り、すなわち婦を將(ひき)いて家に帰る。その俗淫。男女すでに嫁娶するや、すなわち送終の衣を作す。厚く葬り、金・銀・財・幣、死を送るに尽す。石を積みて封となし、列に松柏を種る。その馬皆小、登山に便。国人気力あり、戦闘に習(な)れ、沃沮・東[シ歳]皆これに属す。また小水貊あり、句麗国を作すに、大水に依りて居す。西安平県の北に小水あり、南流し海に入る、句麗の別種、小水に依りて国を作す、よりてこの名を小水貊となす、好き弓を出す、所謂貊弓これなり。

             三国志魏書 東夷伝 より

  ○匈奴・夫餘には、妻問い婚は見えないようです。馬韓・辰韓・弁辰条にも、特段 妻問い婚を思わせる記述はみあたりませんが、


婚姻 韓国
     
    
アイヌ

 アイヌ民族の家族は、一つの家屋に一組の夫婦と子供たちが住み、子が成長するにつれ、新たに家を建てて分かれていくことが多かった。かつては、娘が婚期に達すると、地続きに小さな家を造って一人住まいをさせ、求婚に訪れる青年の中から両方の気の合う者を選んで婚姻が成立するという習慣もあった。この場合、青年がそのまま残ることもあるし、娘の家の仕事をある期間手伝った後、娘を連れて自分の家に帰ることもあった。長男は両親の家の近くに新しい家を造り、両親の面倒を見ると共に父系の財産を継いだ。妻が死ぬとその家を焼き、夫は再婚するまで近親の家などに住んで家を持たなかった。そのことから、妻を失った男を「家のない男」といった。

 アイヌ民族を構成する単位は個人ある。夫婦関係にしても、一方の死や離婚によってその関係は消滅する。親子の関係は、父と息子、母と娘の関係が強調されている。同じ両親から生まれた兄弟姉妹関係においてもアイヌの人々は男女の区別が強く、兄弟と姉妹との関係は分離され、兄弟同士、姉妹同士の関係が強調される。その関係は子や孫にまで適応され、親族の結合の基礎をなした。そのため、男女を含む家族や氏族のような社会集団を単位とする名称は存在していない。

      北の生活文化より


母系社会 中国雲南省モソ族

 モソの人たちは人口約1万人、一般には、納西(ナシ)族(約30万人)の中の1グループとされるが、モソの人たちは固有の民族であるとして、モソ族と名乗っている。 ここでは、女性たちは成人すると家の別棟に部屋を与えられる。男性は、その家の娘が好きになり、娘もいいとなったら、男性は女性の家族に知られずに、娘の部屋を訪ねることができるのである。そうして通ってくることを「走婚」という。
 この村の婚姻の形態には、(1)走婚、(2)一夫一妻の結婚、(3)初めは走婚だったが、後で結婚の形をとって独立したもの、の三つがある。婚姻形態としては走婚が圧倒的に多数を占めている。 子どもは女性の家族がみんなで育てる。家の子どもとして育てるのだという。このとき、子どもの「舅々(チウチウ)=おじさん」、つまり、母の兄弟、がいちばん子どもの教育の責任を負う。人としての善悪や、社会生活のきまりなどは、舅々が子どもに教えるのだそうだ。子供たちがいちばん怖いのは、舅々で、その舅々にしっかりとモラルを教え込まれているので、この村のこどもたちは、泥棒やスリはいない、夜どの家も鍵をかけないでいいという。
 生みの父親は自分の子どもの養育・教育にはいっさいかかわらないが、自分の子どもの代わりに姉妹の子どもたちを育てているわけである。また、この村の子どもたちは、自分の父親がだれであるかは知っているが、その男性が来ても「パパ」とは呼ばすに「舅々」と呼ぶ。子どもは家の子どもであり、村の子どもだという意識が強いのだ。
 どの家の家長も女性である。その家族の中で、最もよく働き、家の管理のうまい女性が選ばれる。長女である必要はない。選ばれた女性は、選ばれたことを誇りに思い、家の繁栄のために真剣に取り組む。
 家計の現金収入は、男達が観光業に従事して得てくる。男達が得てきた収入は、自分の小遣いを残してそれ以外は家長に渡す。家長は大きい金額の出費は家屋で相談するが、ふつうは家長の采配に任される。
 走婚は、ずっと家族が一緒でいられる。子どもができても、家族でみてくれるから、仕事に専念できる。一方、結婚は、好きな人といつも一緒にいられる。何かあると、2人で相談して決める。モソの家族では全員のことを考えないといけないから、煩わしいこともある。また、男の多い家は繁栄できないというデメリットもある。

                結婚制度・家族制度 より

母系社会
  


「招婿婚」をめぐっての高群説と文化人類学の対立

   「招婿婚」とは人類学でいう母処婚(妻方居住婚)なのです。高群氏は推古天皇以前の時代は「妻問い婚」、飛鳥・奈良・平安初期は「妻問い婚」と「招婿婚」の併存、平安中期に「招婿婚」が成立し、平安末期には経営所婿取婚(新居による婿取り)と衰微し、室町以降に嫁取婚へと完全に移行するといわれます。この史実そのものについては、高群氏と人類学とに、それほど認識の差はないのです。高群氏は、この「招婿婚」を母系制社会から父系制社会への移行過程として、母系制の存在を主張さたのです。  

 他方、人類学は平安貴族の「招婿婚」は母処婚ではなく、一夫多妻制の落とし子と主張されています。その理由は、結婚後に夫婦がそのどちらに住むかという居住形態の問題は出自の問題と法則的な関連があって、母処婚は母系出自と深く関係するからです。「高群らがいうように平安時代まで妻問婚や招婿婚が行われていたとすれば、すくなくとも母系制が貫徹していたことになる。だが、階級支配の貫徹する私有財産制のもとで、母系制が存在したという例は、未だ聞かざるところである。・・・・マードックが世界の二百五十の民族の事例を統計的に分析したところ、父系制社会のもとで妻方居住婚を採用している民族は全く存在しなかったのである。このことは、父系制社会のもとで、母系制への変化するということがあり得ないことであることを示している」(『国史大辞典 』)。誠にきついお言葉で、断固拒否の態度です。父系制社会で母処婚に進むという、あり得べき逆行現象が起きているのです。

  ①妻問い婚→ ②妻問い・母処婚→③母処婚→④妻方・父処婚→⑤父処婚→⑥足入れ婚        ∥
    (妻問い・母処婚)→ 「招婿婚」→経営所婿取婚→

   しかし本書の立場からは、この問題は簡単なのです。右のシェーマ図をご覧ください。日本社会の出自を先住の倭人と征服者の渡来人の二つの重なりとして把握しないからなのです。「妻問い婚」は子供が妻のもとにいるのですから、核家族の形成として母処婚に移行するのは自然の成り行きであり、法則的な動きといえましょう。即ち倭人社会の「妻問い婚」がようやくにして母処婚まで発展してきたのです。しかし現実の政治などの組織は父系制でないと運営できないのです。ですから父系制の網が母系の上に被せられているのです。注目すべきは、この「妻問い婚」から母処婚の発展が貴族社会に起こり、民衆は、既に見てきましたが、「妻問い婚」から一部父処婚に移行したことです。これは貴族社会では法則的に発展したが、民衆は律令制という権力者の風圧によって父処婚に移行させられたということでしょう。

   「妻問い婚」は世界にまれな婚姻の形態なのです。この婚制は上古の大家族制のインセスト・タブーの狭い母処婚=父処婚の世界で生まれたものと考えられます。ですから、現在ではほとんど見られず、もはや失われた婚制となりましょう。日本社会でこの婚制が残ったのは、権力者によって民衆の生活が貧困に据え置かれた結果の上古社会の残滓と推定されます。ところが、遺制として残った「妻問い婚」とは、男性は単に種馬ですから、強力な母権的社会となりましょう。ですから、「妻問い婚」は裏返しに、日本社会に母系的な要素を異常に多く残す結果となったのです。最大の権利は女性が生まれたままの家族共同体に結婚後も残る権利です。

     改訂 新・騎馬民族征服王朝説 より

○以上、各民族の妻問い婚についてみてきましたが、形態について若干の違いが あるものの列島にも半島にも古代の習俗として妻問い婚があった事が解ります。

ここで気になるのは

魏書東夷伝倭人条

其の俗、国の大人は皆四・五婦、下戸も或は二・三婦。婦人淫せず、妬忌せず、盗窃せず、諍訟少なし。其の法を犯すに、軽き者は其の妻子を没し、重き者は其の門戸及び宗族を没す。

○ここのところは難しいですね。”国の大人は皆四・五婦、下戸も或は二・三婦” 通う先が、四・五婦 或いは 二・三婦 なのか?  それとも、男性の家に居 るのか? 
 また、魏使が訪れた時期が倭国大乱の後の異常事態だったのか?
いずれにせよこの後、男女相系の時期を経て仏教・儒教の浸透を背景に父系制が 確立していきます。 

    〈古代〉 670年庚午年籍(こうごねんじゃく)
    「子は其の父に配(つ)けよ→父系制の原則が法的に確立。
    それにもかかわらず夫婦は別氏、妻は生家の氏を名乗る。
    結婚は本人同士の意志で妻問いから始まり、一定期間の通いを経て夫が妻方に住み着く(妻方居住)ものが多かった。→『万葉集』でも妻問いの歌が多い。
〈中世〉 *律令制の崩壊に伴って、戸籍は編成されず。
    嫁入婚に移行、縁者同盟の重視→しかし、結婚後も生家の氏を。(北条政子)
〈近世〉  妻は夫に従う身分でありながら、結婚後も生家の氏を名乗る。
(武士の場合)    宗門人別帳、過去帳→宗門による登録制度。
(庶民の場合)    母、姉、女房といった続柄のみの記載。(氏どころか名前の記載もなし。)

       婚姻制度・戸籍制度の歴史 より



婦道



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