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ヤフー掲示板にて、時折出没しております、kuma8_takuan と申します。 今まで書きなぐってきた物などを多少なりとも整理できましたらと思い、 不慣れながらブログというものにTryしていきます。 
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突然ですが皆さん、「格物、致知」って知っていますか?





いきなり古くさい話になって恐縮ですが、少し勉強してみましょう。

これは、四書五経の中の「大学」という書物に出てくる言葉です。

中世以降、儒教というのは、朱子学から陽明学と大きく二つの流れに

なって行きますが、実はこの「格物、致知」の解釈の仕方が違うのです。




朱子学では、現代語で言いますと「ルールを知り、それに従う」と読むのです。

これに対して陽明学では、「ルールを正し、知ったことは行われねばならない」

と読むのです。以下、例を挙げて両者の違いを見てみます。






お隣、韓国に李氏朝鮮と言う国があったのを知っていますか?

簡単に示すと、韓国の歴史は

新羅 → 高麗 → 李氏朝鮮 →(大韓帝国)→ 日韓併合

となり、日本が敗戦を迎えるまでは、植民地?或いは日本人でした。



では何故、日韓併合を受け入れざるを得なかったのか?

それは李氏朝鮮の建国まで遡らねばなりません。

李氏朝鮮を建国した李成桂という人は、高麗王朝の一将軍でしたが、

結果的に高麗王朝を裏切って、高麗王朝を乗っ取った人です。

詳しく知りたい方は調べてみてください。



ここで問題なのは、その後李成桂がとった政策です。

第二、第三の李成桂の出現を恐れた彼は、

裏切り者を出さない仕組みを考えました。

彼は、朱子学を国教に採用し、華夷思想により中国への事大を始めました。

中華 → 小中華 → 蛮夷



両班 → 中人 → 常民 → 賎民



事大と言うのはこの場合、中国の子分になるから、もし李王朝に何か



あったら親分の中国様、助けてくださいよ、と言うことです。



これは、秀吉が朝鮮を攻めた時に機能しました。明軍の参戦

により日本軍を半島から追い出すことに成功します。



おかげで、明の滅亡に拍車をかけましたが、とにもかくにも



ここに朝鮮の序列社会が出来上がったのです。

裏切りと乗っ取りを恐れた一人の男が作り上げた社会です。

朝鮮人にとって不幸なことに、この時王朝の交代はありましたが、

庶民の社会的身分の変動はありませんでした。



朝鮮では、序列の中の自分の位置さえ間違えなければ

後は、ケンチャナヨで結構気楽な社会でもあった訳です。

高麗時代からの身分制が日韓併合まで約一千年の間変わることが

無かったのです。両班と呼ばれた貴族も白丁と呼ばれた

賤民も千年の間、変わることが無かった社会です。

朝鮮時代、改革派と呼ばれた人々も出現しましたが、

悉く保守派に潰されました。これを為政斥邪と呼びます。

序列社会では、身分や長幼の序を犯すことは、罪なのです。

そして、結果として西欧列強が東アジアに進出してきた時、

何等、対応することが出来ませんでした。

明から清へ事大先を代えていた李朝を守ることは、

当時の西欧列強に侵食されていた清に出来ないことでした。

ここに新たに台頭して来た日本、日清・日露戦争に勝ち抜いた

日本への併合を余儀なくされたのです。

言葉を変えるなら、座して死を待つほか無かったのです。




つまり、朱子学を採用した朝鮮での読み方は、ルールを知ると言うことは、



序列社会の中の自分の位置を知り、そこからはみ出なければ良いと言う事



になります。これって、何処かの会社人間の誰かさんに似ていませんか?









では、翻って日本での場合を見てみましょう。










日本でも江戸幕府は朱子学を採用しました。



のみならず、士農工商と呼ばれた身分制度がありました。



しかし、朝鮮とは違って陽明学を排斥しませんでした。



江戸幕府は、キリスト教は排斥しましたが、国内勢力を恐れてはいなかった



ようです。ただ、諸藩の勢力の伸長には注意していたようですが。



陽明学と言うのは、改革や時には革命に至る考え方です。



旨く機能していないルールは、正さねばならないのです。



良いと知ったことや理解したことは、実践されねばならないのです。



これが、「知行合一」と言うことです。





下級武士や庶民が学問所や寺子屋で学んだのは、この陽明学です。





江戸時代には、激越な思想家が多いのも肯けますね。



革命思想にまで至った代表的な例は、大塩平八郎の乱です。



改革思想の代表は、山田方谷や上杉鷹山の殖産政策です。



そして、幕末に黒船が来航すると、幕府の無能無策ぶりに激高した



維新回転の志士達が雨後の筍のように湧き出てきます。



彼らの考えは国学と結びついて、尊皇攘夷というものでした。



これは当時の幕府の開国政策と相容れず、



結果として、多くの血が流されました。



しかし座して死を待つより、どれ程良いでしょうか?



儒教で「礼」と言う言葉があります。この意味するところは間合いです。



礼儀と言うのは、その間合いの結果が形になったものです。



主従・師弟・親子・強者弱者・夫婦・男女・友人など、



その関係が良い形に出そうとするのが礼です。



それは人間関係を規定するだけではなく、人それぞれの人生を



良い形にしていく関係性を示して行くのも「礼」です。



論語などで、孔子が「あれは礼に適っている」とか言う話は、



ここを解かっていないと永遠に解からない話です。



仕事が旨く行っていないのに何もしないのは礼に適っていません。



お金が無いのに何もしないのも礼に適っていません。



何も出来ないと嘆いているだけでは、礼に適っていません。



礼とは、八方塞がりの状態でも「できることからやっていく」



すなわち、これが「礼」の心なんです。





弱肉強食の時代に、日本は強食を選択しました。



強食を選択できなかった朝鮮は、弱肉でしか有り得ませんでした。



そのために朝鮮は併合され、日本はアジアで唯一西欧列強に対抗



できる勢力に伸長していきました。何故かは、もうお解かりですね。

















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父は会津、母は信濃出身で、どうみても縄文系の熊八です。北海道生まれで、関東育ち。現在は相模の国に住まいしております。
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