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ヤフー掲示板にて、時折出没しております、kuma8_takuan と申します。 今まで書きなぐってきた物などを多少なりとも整理できましたらと思い、 不慣れながらブログというものにTryしていきます。 
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桓檀古記/太白逸史/高句麗國本紀 -抜粋ー

一自渡海所至擊破倭人倭人百濟之介也百濟先與倭密通使之聯侵新羅之境帝躬率水軍攻取熊津林川蛙山槐口伏斯買雨述山進乙禮奴斯只等城路次俗離山期早朝祭天而還時則百濟新羅駕洛諸國皆入貢不絶契丹平凉皆平服任那伊倭之屬莫不稱臣海東之盛於斯爲最矣先是陜父奔南韓居馬韓山中從而出居者數百餘家未幾歲連大裙流離遍路陜父乃知將革誘衆塗糧舟從浿水而下由海浦而潛航直到狗邪韓國乃加羅海北岸也居數月轉徙于阿蘇山而居之是爲多婆羅國之始祖也後倂于任那聯政以治三國在海七國在陸初弁辰狗邪國人先在團聚是爲狗邪韓國多婆羅一稱多羅韓國自忽本而來與高句麗早已定親故常爲烈帝所制多羅國與安羅國同隣而同姓舊有熊襲城今九州熊本城是也

倭在會稽郡東東冶縣之東舟渡九千里至那覇而又渡一千里至根島根島亦曰量島時狗奴人與女王相爭索路甚嚴其欲往狗邪韓者蓋由津島加羅山志加島始得到末盧戶資之境其東界則乃狗邪韓國地也會稽山本神市中經所藏處而司空禹齋戒三月而得乃有功於治水故禹伐石刻扶婁功於山之高處云則吳越本九黎舊邑山越左越皆其遺裔分遷之地也常與倭往來貿販得利者漸多秦時徐市自東冶海上直至那覇經種島而沿瀨戶內海始到紀伊伊勢舊有徐福墓祠或曰亶洲徐福所居云


(広開土大皇が)一たび海を渡れば至る所倭人を撃破する。倭人は百済の介なり。百済、先に倭と密通し、これをして新羅の境を聯侵せしむ。
帝みずから水軍を率い、熊津、林川、蛙山、槐口、伏斯、買雨、述山、進乙、礼奴、斯只等の城を攻取し、路次、俗離山に早朝を期して天を祭り、而して還る。
時に則ち百済、新羅、駕洛の諸国、皆入貢して絶えず。契丹、平涼、皆平服す。任那と伊倭の属、臣と称せざること莫し。海東の盛んなる事、斯に於いて最為り。

これより先、陝父、南韓に奔りて馬韓の山中に居る。従いて出居する者、数百余家、未だ幾歳ならざるに、大裙に連み、流離遍路す。陝父、乃ち将革を知り、衆を誘いて糧を裏し、船にて浿水に従いて下り、海裏由り潜に航し、直ちに狗邪韓国に到る。乃ち加羅海の北岸なり。居ること数月、転じて阿蘇山にうつりてこれに居る。これを多婆羅国の始祖と為すなり。後に任那を併せて聯政し以って治む。三国は海に在り、七国は陸に在る。

初め弁辰狗邪国の人、先ず団聚すること在り。これを狗邪韓国と為す。多婆羅は一に多羅韓国と称す。忽本より来り、高句麗と早已親を定む。故に常に烈帝の制する所と為る。多羅国は安羅国と同隣にして同姓なり。旧、熊襲城を有す。今九州の熊本城これなり。

倭は会稽郡東冶県の東に在り。船にて九千里を渡り、那覇に至る。又一千里を渡りて根島に至る。根島は亦と島と曰う。時に狗奴人、女王と相争い、路を索すこと甚だ厳し。それ狗邪韓に往かんと欲する者は、蓋し津島、加羅山、志加島に由り、始めて末盧戸資の境に到るを得べし。その東海は、則ち狗邪韓国の地なり。

会稽山は、もと神市の「中京」蔵せられたる処なり。司空・禹、斎戒すること三日にして得、乃ち治水に功有り。故に禹、石を刈りて扶婁の功を山の高処に刻めりと云う。則ち呉越はもと九黎の旧邑なり、山越と左越は、皆その遺裔の分遷せる地なり。常に倭と往来し、貿販して利を得る者漸く多くし。秦の時、徐市、東冶の海上より直ちに那覇に至り、種島を経て瀬戸内海に沿い、始めて紀伊に到る。伊勢に旧徐福の墓祠有り。或いは曰う、「亶州は徐福の居る所なりと云う」と。

桓檀古記(漢文)
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