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ヤフー掲示板にて、時折出没しております、kuma8_takuan と申します。 今まで書きなぐってきた物などを多少なりとも整理できましたらと思い、 不慣れながらブログというものにTryしていきます。 
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オシラサマについては、ネフスキー氏の指摘するように、お知らせ神であると思います。古代の狩猟採集民にとって、今日・明日、何処へ行くかで収穫できる獲物の料が違うということは、それは切実な問題であろうことは容易に想像できます。

白山信仰には、菊理姫がセットになっています。ククリヒメなどとも言われ、高句麗との関連を疑う説もありますが、これは、菊理(姫)→ 聞き取り(巫女)であろうと思われます。

沖縄には、聞得大神とユタというのがありますが、東北・北陸にはオシラサマとイタコですね。人により感じ方は違って当然なのでしょうが、私は似ていると思います。縄文期のシャーマニズムが遠く隔てられた地域に残されているのです。

知らせ神 イタ(コ) ⇔ 聞得大神 ユタ

古形が知らせ神であったオシラサマは、その言葉の類縁性から様々な信仰が習合していきます。

シロコ・シロは、蚕の別名であり養蚕農家や絹製品に携わる人々からの崇敬の念を集めますし、白日神と言えば素戔嗚尊のことでもあります。

素戔嗚尊は、新羅から来たという記紀の記述や、新羅(しらぎ)そのものの音からの関連性や朝鮮半島での聖地、白頭山(長白山)関連、渡来系の人々には当然そのような観念もあったのではないだろうか。

一説には匈奴語でシラマは、白山の意味が有るといいます。ヒマラヤはサンスクリット語で白い住居の意味があるとも言います。神霊の降り立つ処としてのシロ信仰、三苗族の中には白を族名としている白族もあれば、白衣民族とも言われる半島人もいました。東アジアには、古来よりシロ信仰があったように思えます。

頭をカシラとも言う。アイヌ語でkaは、~の上 つまりシラの上にあるのが頭、カシラ。柱ハシラは、アイヌ語でpaは、頭の上 つまり頭の上のシラが柱、柱は墓標でもあり神霊そのものでもあります。

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ニコライ・ネフスキー氏の書簡


アイヌのオシラ神に就いてはまだ智識は御座いませんが、樺太アイヌには Shienishte と申して男女二体の神あり、「ニハトコ」の木でこしらえてある。首の所へ少し斗り布片を纏ふのです。之を子供の御護りなりといふ。

更に松前記の記事を見ました。其の時はアイヌのオシラ神は現代アイヌのシラッキカムイに何か関係ないかしらと思って居りました。「オトラ狐の話」を金田一君のお手紙と一所に考えてみると非常に面白いと思います。

アイヌのシラッキカムイは(語源は看守する、番すると同一なり)アイヌの守り神である。アイヌが一人前になると大抵みな一つづつ(時としては沢山)もって居るそうです。少し家をはなれる様な場合には、カバンへ納めて身を放さず携帯するのです。病気にでもなると、すぐそれを取り出して全快を祈るのです。

又山中で、どっちへ赴いたら獲物に逢われるかと占う時にも、之をカバンから取り出して頭の上に載せて、呪文を唱えた後、少し頭をかたむけて頭上から下へそれを落とすのです。その落ち方を見て吉凶を卜知するのだそうです。

其のシラッキカムイの実物はどんなものでせうかと問ふに、老狐のされかうべです(時々梟の髑髏も使います)。狐は年を取ると尾のさきが二つにも三つにも裂けるさうです。それでなければ、この守り神になりませんといふ。

髑髏は綺麗に骨だけにして目の穴へはイナウのけずり屑を詰め、左右の耳の辺りをばキリヾと縛って耳のやうにイナウの端を立てます。この髑髏の中へもイナウを詰めて神聖にしてあります。

平常これをイナウの削り花の束の中へ挿入しておきます。持って歩くにも其のまヾ(屑をつけたまヾ)持って歩くのです。只占う時だけはほんの髑髏だけを頭上に載せます(金田一君の御手紙の摘要)。


大正九年四月七日   柳田國男宛 書簡より抜粋

N・ネフスキー 著  岡 正雄 編 「月と不死」平凡社 より
ニコライ・ネフスキー氏の手紙


私の考えではシラーといふ神名は知るといふ語から来てゐるのではなかろうか。そして神様の名前はシラであってこの神に侍する者ー即ち巫女ーもシラといふ名前を負たらしい。おしまひには巫女の一種の俗名になつたのではなからうかと思ひます(白神筋、白比丘尼、白拍子、白太夫等御参照)。

御承知の通り色々の人種や民族の巫祝の俗名は(シャマンを始めとして)知るといふ語に根ざしてゐるのです。日本にもヒジリなどの言葉は同じ意味ぢゃありませんか。極昔は巫女の事を只シラといふたかも分かりません。

人民の方からいへば巫女はシラ即ちモノシリで、巫女の方から云ふとオシラ神は我にものをシラせる神であると言ふても差支がなからうと思ひます(国々にある尻神や知神等は元と巫女シラ神であつたかも知れません)。

昔の巫女が神下しする折には色々の神々を呼び寄せたが、彼れに憑いた神は只一番大切な代々から緻密な関係のあった神だけでした。其の神を巫女自身が知ら神といつたのではなからうか。又色々の神々を呼び寄せた事も右の因縁深いおしらさまのお蔭だつたと思います。

だから神降ろしの時に右の御神体で弦を打って神々の名を唱えて彼等を呼び出したのです。即ち右の神は色々の神々の神使いです。此方面から神使を研究しなければなりません。

其オシラサマの色々の動物頭を調べて見ると狐、鶏、馬など御座います。大抵皆憑きものです。馬は憑きものあるといふ事に就いては材料が御座いませんが馬を神として(又は道端でYの様な馬供養を立てヾ)祭る習慣と、西比利亜シャマンと深い関係があるのとを考えて見ると、昔の日本に於いても馬と巫女術との関係があつたかも知れません。右の動物は所々の巫女銘々の守護神だつたとも考えられます。

山猟団体が狩に出掛ける折には、巫女を連れて来て彼の守護神なるオシラ神には御意見を聞いたと思ひます。山猟と巫女術と極々緻密な関係だつたと思ひます。現代の巫女が弓を使ふのとイラタカの数珠に猛獣の牙や爪を附けるのと、猟の前にオシラサマに方角を聞くのとは皆々其の時代の歴史を語るものでは御座いませんか(オコゼ魚を紙で包むのとおしらーーに着物を着せるとは何か関連が御座いませんか)。

時代が変わつて来て狩猟団体の代わりに舞台に百姓が出て来た。巫女は一定した村に居られなくなつて浮標人になりました。百姓のご機嫌をとつたり大事な農業の事を神に聞いたりなどして生活して居りました。

豊作がつづいた時には左程巫女の力を借りる必要がない時は、彼女達は生活をいとなむ為に村から村へ、戸から戸へ廻り歩いて大事な神様を遊ばすとて人形芝居の様な事をやり始めたのではなからうか。

もとの所には仏像を真似てオシラ神の御神体を安置して白太夫とて祭つたのでせう(自分も時として白太夫と名乗って国から国へ漂って居りました)。更に白山といふ名前に就いてはどうも其の処は何かの故を以って巫女に関係深い所だつたと思われます。

白山はくさんのもとの訓はシラ山だと思ひます。後に仏教の影響を受けてハクサンと呼ぶ様にしたでせう。其の辺から出た巫女は、西宮の白太夫と同じく男女二体の人形を安置して置いて白山権現として其を祭つたかも知れませんが如何でせうか。



大正九年四月一日  中山太郎 宛書簡より抜粋

N・ネフスキー 著  岡 正雄 編 「月と不死」平凡社 より
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